舟山神社

祭神:底筒男命(ソコツツオノミコト)
配神:岩樟船命(イワクスフネノミコト)

養父市八鹿町伊佐字山ノ段681ノ1番

行き方

国道312号線を八鹿町下小田の信号で出石方向へ曲がり、伊佐橋を越えるとすぐ右手の円山川岸にこんもりとした小山がある。 舟山古墳として知られ、舟山公園にもなっている。 
舟山古墳は、標高62mの小高い丘陵で、約1500年前につくられた古墳が2基あり、円山川に大きな岩盤を張り出している。舟山の東側は公園として整備され、桜が植えられている。 
その麓にあるのが舟山神社です。

創立年月不詳
明治6年(1873)10月村社に列し同13年拝殿を建替

御祭神の底筒男命は、住吉三神の一柱で、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)と合わせて住吉三神といい、海の神・航海の神とされる。

配祀神の岩樟船命については、詳細はわからないが、参考として「ホツマツタエ/天の巻」という文献の中に次のような箇所があるという。

『イサナギとイサナミの子、ヒルコは両神の慈しみを一身に受けて育てられ、まだ三年にも満たないというのに、親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ捨てられました。下流でカナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻のエシナズの乳を得て何不自由なく我が子同様に育てられました。ヒルコ姫は、今では美しい乙女に成長しました。厄もきれいに川の水に流された今、再び両親の元に呼び戻されて、天照神の妹(イロト)として復活し、ヒルコの名もワカヒルメと変わりました。 
この後、アチヒコとワカ姫はカナサキの船が縁をとりもち、今はヤス川(野州・やす)辺に宮を造り、名もアマテル神の妹シタテル姫となり幸せに暮らしました』 

※ここに岩樟船(イワクスフネ)と住吉神が登場します。 

また、住吉神についてのエピソードとして、次のような文がありました。 

『アマテル神の御幸(みゆき)のお供で船に乗っていた時のこと、暴風が激しくて波が高いのを打ち返そうと回文歌(マワリウタ)を詠むと、風が止み波は静かになって舟は無事に阿波の湊に着くことができたといいます。 
<ながき夜(よ)の 遠(とお)の眠(ねぶ)りの 皆目覚(みなめざ)め 
             波乗(なみの)り船(ふね)の 音(おと)の良(よ)きかな>』 

鳥居を過ぎたところに、神門跡か、篭り堂あとか、神楽殿跡か・・・・なにかの建物の骨組みだけが残っている。残骸のようにも見えるが、現役で使われている様でもあり、ロッカーのようなものが置いてある。 
もしかしたら、その前にある土俵で相撲大会などする時には観客席にもなるのだろうか・・・・ 

門をくぐった正面に拝殿、その後ろになかなか立派なつくりの本殿があり、渡り廊下で繋がっている。

拝殿横から
拝殿の懸魚
拝殿屋根の「鯉」が彫られた瓦
拝殿右の境内社「稲荷神社」

本殿

本殿は角度的に全貌が見えなくて屋根だけですが、とても重厚な感じで立派な建物

本殿の海老虹梁
境内中から見た神門(?)

入口鳥居をくぐるとすぐに、頭の上に可愛らしい花を咲かせた石灯籠があり、灯篭の下に、舟山公園への道しるべがあった。

但馬の神社では必ずと言っていいくらいこの「オハグロトンボ」に出会います。

忠魂碑

伊佐橋を八鹿方面から渡ってすぐの右側に、旧伊佐小学校の建物が見える。舟山神社はその奥にあるのだが、小学校跡地との境に忠魂碑がある。
これは、1928年(昭和3年)に昭和天皇の即位を記念して舟山神社境内に立てられたものである。また、忠魂碑の横には、日清戦争で使われた大砲の砲弾が安置されている。

舟山神社から浅間方向へ少し行くと円山川のほとりに青渓中学がある。すぐ近くの宿南にあった池田草庵の「青渓書院」から名を付けられたこの中学は統廃合となり、今期で閉校が決まっている。 

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