二見天満宮

豊岡市城崎町二見

昔の城崎への旅は、もちろん!電車も車もなく・・・ひたすら歩いた。
しかし江戸時代のこのあたりは川の船便が完備していて結構快適な温泉の旅ができたようである。

八鹿から船を乗り継いで城崎まで・・・その間には休憩をするスポットが各地にあり、船のお客相手に生計を営んでいた部落も多い。

二見は景勝地であり、宿もあったのだろう・・城崎温泉への直前の逗留地として定番の宿場だったと思われる。

平安時代初期の歌人で三十六歌仙の1人であり堤中納言と呼ばれて逸話の多い、藤原兼輔(877~933)がこの地を訪れ歌を残している。

『但馬の国の湯へまかりける時に、二見の浦というところにとまりて、夕さりのかれいひ食うべけるに、ともにありける人々歌よみけるついでによめる』
と、あって・・・・・

<夕づく夜 おぼつかなきを玉くしげ ふたみの浦は あけてこそ見め>

この歌の中の、夕づく・・・とは、「夕方になって月が出始めたころ・・・暮れ方のこと」
玉くしげ・・・は、<ふた、み、あく・・・などにかかる枕詞>きれいな箱の事。
ふたみのうら・・・つまり、ふたの裏を見る・・・には、開けなくては!と夜が明けるをかけているのだ。
おぼつかなきを・・・は、ぼんやりしてよく見えない。

つまり、美しいと聞いてきた二見の浦だが、日が暮れてしまってよく見ることが出来ないので
夜が明けて明日になってからじっくりと眺めましょうか!と言う意味らしい。

文学碑

京都上賀茂神社の神官が1835年にこの地を訪れ、この境内に建てたという石碑。字は薄れて解読不能。兼輔を偲んで詠んだ長恨歌。

なお、藤原兼輔の良く知られた歌として百人一首に有名な
「みかの原 わきてながるるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ」でご存知の方も多いと思う。

先の二見で詠まれた歌は、醍醐天皇の勅命で編纂された古今和歌集のなかに収められている。

二見の無限水

円山川左岸にある二見は古くから名水の出ることで有名でした。夏でも長く足をつけられないほど冷たいと言われ、以前は豊岡へも送水していたそうですが、現在はほとんどが城崎へ送られています。

二見の対岸『玄武洞』の岩石は学名を「玄武岩」といい、この名は玄武洞から来ていますが、命名したのは江戸時代・文化年間にこの地をおとづれた学者・柴野栗山です。

文化4年(1807)柴野栗山はここに遊び、玄武洞(亀の甲の洞・また色の黒)と名づけ天下の奇勝として紹介し玄武洞は広く人に知られるようになりました。

また、栗山は二見の清水を『無限水』と名づけたたえました。豊岡の「ベロベロ踊り」の歌詞にも
「豊岡下に出りゃ二見の清水、飲めば気もよい、涼やかに」と歌われています。

今でこそ二見から城崎へは円山川沿いの自動車道路で5分か10分ですが、昔は山を越える道でした。二見は城崎の直前にあり、前に展望が開けていると共に、うまい清水が出ていて恰好の休憩所となるので、この地で休んで「歌を詠む」スポットでもあったようです。

藤原兼輔の他にも・・
「花を東月かけ西に二見かな   宗祇法師」
「時ならは舟さし寄せん玉手箱二見の清水冬そかいなき    沢庵和尚」
「上へ下へ月を二見の清水哉    樗良」
「飯骨柳をあけて二見の清水哉   素白」

二見谷古墳群

二見の丘陵上には6世紀後半に築造されたと考えられる古墳群があり、1号~5号墳、8号墳の6基が確認されています。2・5・8号墳は全くその墳形をとどめていませんが、ほかの3基は比較的よく保存されています。特に保存状態の良い1号墳は、直径約20メートルの円墳で、出土遺物から築造後少なくとも3度の追葬あるいは追善が行われたと考えられています。

内部は全長約8.2メートルの両袖式横穴式石室で、玄室には刳抜式(くりぬきしき)の家形石棺が置かれています。

二見谷古墳群は昭和49年に県の史跡に指定されています。

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