兵主神社(ひょうずじんじゃ)|式内社・旧社格・村社

祭神:八千矛神

豊岡市日高町浅倉字宮岡

由緒沿革

創立年月不詳。延喜式には小社となる。寛永9年(1632)本殿を造立し、次いで延宝6年(1678)、享保14年(1729)に再建した。文化12年(1815)本殿覆を普請し、明治6年10月村社となる。

<境内社> 稲荷神社/水無月神社
<境外社> 荒神社・・・日高町浅倉字寺谷(祭神:奥津彦神/奥津姫神/火結神)

山陰線江原駅から南へ1.5キロ、私の住む赤崎部落とは円山川をはさんで向かいにある浅倉に、式内兵主神社はある。

とても近いのに、境内に入ったのは初めてだった。思っていたよりもずっと広く、社叢林がとても高木で驚いた。今でこそ周囲は田圃の続く平地であるが、大昔、このあたりは丘であり、大木が鬱蒼と繁る森だったらしい。

川すそ祭で知られる水無月神社は、兵主神社の境内社で、毎年7月30日には神輿が円山川に入る「おたび」及び、夕刻に「湯だて」の神事が行われる。
水難除け、婦人病を癒す神だという。

兵主神社は浅倉の村道に面して大きな石造の鳥居があり、少し石段を上ると広々とした境内が道より一段高いところにある。
その道から立ち上がる石垣の前面に、小さな祠があり、素朴な彫りの「一石六地蔵」がある。

『浅倉村史』によれば、この「一石六地蔵」は、長禄4年(室町時代末期・1460)庚辰と書かれており、この年は飢饉で餓死者が多数出たので、その供養に造立されたものと思われる。

鎌倉時代以降、民間に普及した六地蔵信仰は、末法到来のときの救済者として、地獄で苦しむ人々を救い導くものと崇められた。
仏教の世界観では、衆生が生前の業因によって生死を繰り返す6つの迷いの世界(地獄界/餓鬼界/畜生界/阿修羅界/人間界/天上界)があり、地蔵菩薩を念じることで、この六道の世界から救われるとされた。

6つの地蔵を一石に刻んだ一石六地蔵信仰は、南北朝から室町時代にかけ盛んとなった。

鳥居の社名額
階段下の社名標
石垣に埋め込まれた「一石六地蔵」前から見る境内左半分

道から石段を上がると、すぐ右手に神楽殿がある。
とても大きくて、立派な建物で、正面上部には、端から端まで渡した一枚板の虹梁が緩やかな曲線を描いている。

神楽殿の向かい、境内左には大変に大きな自然石の御神灯がある。

裏を見ると、「昭和3年、御大典記念」と刻まれている。

一の鳥居の石段から、本殿のある二の鳥居まではかなり広々とした何もない空間が広がっている。
村人達は年の暮れにはここで正月を迎えるどんどをする。
元旦は神社に参拝し、年賀挨拶の会をひらき神酒を頂く。
氏神礼祭には、のぼりや高はり提灯をたてて祀り、太鼓がなりひびくという。

創立年代を考える

資料:『浅倉村史』

兵主神社より

大化改新後には、各国に国府がおかれ、国分寺が建立されるが、但馬国では日高町の何処かに国府がおかれた。国分寺も建立された。

七重の塔が空多高くそびえ、南大門、中門、金堂、講堂などの大伽藍が立ち並ぶ美しい景色を浅倉の人々も遠景に眺めたことでしょう。

国府には国庁があり、国の役人が来て但馬国を治め、その近傍には軍団がおかれていた。

但馬には<気多軍団>と<養父軍団>がおかれていた。
軍団や兵器庫には守護神として、『兵主神社』が祀られていた。

久斗をはじめ但馬の各地には、兵庫がおかれ、兵主神社が祀られていた。

天平9年(737)の但馬国正税帳によれば、器仗修理料として稲1144束が支出されている。修理された武器には、甲、箭、大角、小角、槍、振鼓、楯の名が記され、『続日本後紀』承和7年(840)5月条には、「但馬国の報告によると、養父郡の兵庫の鼓が故なくして夜鳴る。その声は数里に聞こえた。また、気多郡の兵庫の鼓が夜鳴りだした。その声は行鼓のようだった」との記事がある。

※昭和30年ごろまでは、浅倉も赤崎も養父郡宿南村に属していました。現在60代以上の人は、養父郡八鹿町の宿南小学校へ通っていました。

また、伝承によれば、但馬養父浅間の大兵主薬が伝えられているが、これは浅倉の兵主神社の神霊薬のことであろうと思われる。この薬は大刀や矢傷、湯火や毒虫噛痛み止め治療薬である。
その製法は、ごま油とムカデ三匹を壷に入れ、口を封じておくと、ムカデが溶化する。この壷を湯煎して貯えておき、時に応じて使用すると伝えている。
このように古い時代から兵主神社が在ったのである。

延喜式神名帳(902)に浅倉の兵主神社も列せられており、兵主神社の一番古い棟札には建久3年(1192)6月のものがあり、「但州養父郡宿南荘兵主神社大明神を建築した」というが、この棟札は残存していない。

※「浅倉」の村名の由来は、但馬国府が設けられた頃、養父郡浅間郷に属していたこの地に、朝来軍団の一つの部隊が置かれ、『浅間兵庫(あさまやくら)村』と呼ばれていたことから、それが短縮されて現在の「浅倉(あさくら)」の名となったという。旧宿南村に属し、昭和30年2月に旧日高町と合併した。

御祭神について

兵主神社の御祭神については各説あるようである。
神名帳考証では<素盞鳴尊(すさのおのみこと)>だとし、神祇志料では<大己貴命(おおなむちのみこと)>だとしている。

大己貴命は別名大国主命、八千矛神という。

祭礼日は旧9月23日であったが、今は10月10日になっている。

境内社

水無月神社

水無月神社の創立年月は不明だが、宝永3年(1706)の指出帳には記されていないので、これより以降に勧請されたようである。
最も古い記録は、安永8年(1779)6月、氏神講中が錦一丈八尺を奉納していることである。

水無月神社の祭神は、兵庫県神社誌によれば、<上筒男命/中筒男命/下筒男命>で住吉神社の祭神と同じであって水難除けの神様となっているが、川濯祭りが行われている事から見れば、川濯神社(祭神:瀬織津姫命/速秋津姫命/気吹主命/速佐須良姫命)が合祀されていると思われる。

川濯祭りは川が海に出る地点や、川と川が合流する地点に行われる神事で、浅倉でも円山川と稲葉川(いなんばがわ)に接する地形であることから、毎年のように水害を受けてきた歴史があります。
この水害で、農作物や民家に被害をもたらす円山川の氾濫を防ぐために、神輿が川の中に入ってお払いとお祓いを行うのが川濯祭りです。

当日、十数人の青年達が神主のお祓いを受け、円山川へ神輿を担ぎ込みます。これを「お旅」といい、白装束に烏帽子をかぶり、ハチマキ・たすきがけでわらじをはいて川に入ります。
「おうさや、ちょうさや」という独特の掛け声で神輿を担ぎ、清流につけて上流から下流へ3回流し、水難除けを祈願して帰路につきます。

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