豊岡市城崎町楽々浦
私は数年前まで城崎温泉の観光協会で働いていました。だから、この「鼻かけ地蔵」ももちろんご案内するスポットの一つでした。でも実際に訪れたのは会社を辞めてからのことです。
思っていたよりもひっそりしていて・・・(というのは、「まんが日本むかし話」で紹介されたものですっかり有名になっていましたので。)静かな楽々浦(ささうら)の入り江をしたがえてひっそりと鎮座する様子が思いがけずアリガタイ気持ちを感じさせられました。
鼻かけ地蔵伝説
昔、但馬(たじま)の楽々浦(ささうら)の村に、貧しい漁師の男が住んでいました。毎日、楽々浦であみを打って働いていましたが、暮らしは少しも楽になりません。そんなある日、男の夢にお地蔵様があらわれて、こんなふうにおっしゃいました。
「私は、大水にさらわれて、楽々浦の底にしずんでいるのだよ。暗いし冷たいし、その上ここにいたのでは、人々を救うこともできない。どうかおまえの力で助けておくれ」
ふしぎな夢もあるものだ。男はそう思いましたが、翌日さっそくあみを打って水底をさぐってみました。すると、夢のとおりのお地蔵様があみにかかってあがってきたのです。男はさっそく、小さなお堂をこしらえて、お地蔵様をていねいにお祭りしました
あくる日、男がお参りしてみると、お地蔵様の足元に白い米つぶがたくさん散らばっています。どうしたことかと思って見ていると、なんとお地蔵様の鼻の穴からぽろり、ぽろりと米つぶがこぼれ落ちているではありませんか。男はびっくりするやらうれしいやら。さっそく、おけを持ち出して、お地蔵様の鼻の下に置きました。
ぽろりぽろりとこぼれ落ちるお米は、だんだんとおけの中にたまってゆきます。
「これはありがたい。もう苦労をして働かなくても暮らしていける」
それからというもの、お地蔵様の鼻の穴からこぼれるお米で、男はだんだん豊かになりました。いつまでも止まることなく出てくるお米を、近所の人たちに分けてやるようにもなりました。
ある日、男は考えました。
「あの鼻の穴がもっと大きければ、もっとたくさんお米が出てくるんじゃないかな。そうすれば、もっといい暮らしができる」
ようしっ! 男はのみと金づちを持ち出すと、さっそくお地蔵様の鼻の穴をけずりはじめました。
トン、カン、カン・・・。
鼻の穴は少しずつ大きくなってゆきます。「よしよし」男はにっこりしました。
「もう少しだ」
ところが、あと少しというところで、手元がくるってしまったのです。
「あっ!」
しまったと言うひまもなく、次のしゅん間、お地蔵様の鼻は欠け落ちていました。そしてそれきり、お地蔵様の鼻から出ていたお米は、ぱったりと出なくなってしまいました。
男はぼう然としましたが、もう元にはもどりません。
「何とばちあたりなことをしてしまったんだろう」
男はすっかり目が覚めました。心から反省し、毎日お地蔵様にお参りしておいのりするようになりました。前にもまして、楽々浦であみを打ち、いっしょうけんめい働きました。やがて男はおよめさんをもらい、二人は幸せに暮らしたということです。
今でも、鼻の欠けたお地蔵様は、楽々浦のほとりにあるお堂の中で、村の人たちの暮らしを見守っています。どんな願い事でも、ひとつだけちゃんとかなえてくれるというお地蔵様には、毎日きれいな花が絶えることがありません。
浮島弁天
鼻かけ地蔵は円山川河口に近い「楽々浦(ささうら)」の縁にありますが、その楽々浦湾に小松の繁る小さい島があります。この島は「楽々浦の浮弁天」と呼ばれています。
秋の澄み渡った大空に紅や白の大幟が立って、太鼓の音がドンドンと湖面をつたって流れてゆく様子は、円山川水郷風景に紅一点をそえ大変美しいそうです。
大昔、この島は今のように陸地に接近せず、遠く湖の中にあって四方の眺望も絶景で、ことにその老松繁茂している様子はこのあたりの仙境であったとのことです。
また、湖中のこの小島は、どんな大洪水にも浸水したことのない不思議な島で、弁天さんの祀ってあるところから、「浮弁天」と言われています。
古い書物に次のような話があります。
「大昔の事、物部真鳥命(もののべまとりのみこと)という人が、時の天皇の命令によって遠く韓国に使いし、無事任務を終えて帰航し、途中この但馬国の三島の水門(みずと)=(楽々浦から円山川口へいたる一体を総称す)にお着きになりました。
舟の着いたところを「御舟島」といって、水上に浮かんでいるようであったので、後に「浮島」と呼ぶようになりました。命は任務を果たした功によって姓を「韓国連(からくにむらじ)」と賜りました。
今の飯谷(はんだに)の氏神さん、韓国神社の祭神がこのお方だそうです。
※楽々浦の氏神さんは三島神社と言います。
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