祭神:名草彦大神を主祭神として、天御中主神/高皇霊産神/神皇霊産神/五十猛神/大屋津姫神/柧津姫神
兵庫県養父市八鹿町石原1755番地の6
由緒
敏達天皇14年(585)、紀伊国名草郡出身の養父郡司・高野直夫幡彦が当時流行した悪疫に苦しむ民を憐れんで、故郷の祖神(名草彦命)を石原山(妙見山)に祀ったのを創祀としています。
式内小社に列し、神仏混淆時代には社名を「妙見社」と改め真言特有の加持祈祷を以て信仰を得て天下の名社となりました。
室町時代の守護大名・山名宗全は社領を増やし、又、江戸時代の三代将軍・家光公は朱印領30石の寄進をしています。明治維新後社名を「名草神社」と復称し、大正11年縣社に昇格しました(参拝の栞より)
アクセス
車でないとチョット無理です。(八鹿駅から全但バス石原行き石原下車徒歩2時間)
車では、国道9号線を村岡方向に向かって走り、八鹿高校・ショッピングセンター『ペア』へ曲がる信号(天子の信号の次の信号)で右折しそのままどこまでもまっすぐ行きます。
周囲は有名な妙見杉が鬱蒼と立ちはだかり日本三大妙見の一つである「但馬妙見」の山は人が立ち入るのを拒むかのような押し返す霊気に満ちていた。
八鹿から20分ほどで石原の日光院に到着(写真左)。そこから更に20分で名草神社の駐車場に着いた。
大きな自然石の社名標があり、ここでいつもなら何のためらいもなく暗い参道へ入ってゆくのだが・・・・不思議な怖さに捕らわれてなかなか一歩が踏み出せなかった。
最後の集落、石原にある「日光院」(明治までは現在の名草神社の場所だったそうです)
参道
参道を入ってすぐの右上、社名標の真上には境内社「八坂社」がある。(写真左)この周辺の杉はかなりの巨木ぞろいで圧倒される。
少し上に参道を行くと、詩人の富田砕花の歌碑 がある。
「妙見の雪に埋もれてひっそりと 生きづけるがに塔はあるもの」
八鹿の綿貫墨石さんの書によるもの
三間三重塔婆
初めて三重塔が見えた瞬間は「おおおお!!」という感じでした。
三重塔の下に立つとやはり大迫力です。周りに全く緑と茶以外の色がないので、朱が目にしみます。
名草神社三重塔は、明治37年国宝となり、のちに重要文化財となりました。
高さは23.9メートルもあり、屋根は杉板を重ねたこけら葺き。
この塔は出雲大社の境内に、出雲国の大名となった尼子経久公が願主となって大永5年(1525)に起工し、同7年に竣工したものだそうです。(参拝の栞より)
江戸時代に妙見社が、出雲大社本殿の御用材として御神木とよばれた妙見杉の巨木を提供した御礼として、三重の塔を譲り受けたとのことです。
出雲で解体し、島根県宇龍港を船出して、豊岡の津居山港に着いた塔は3500人の人の手を使って妙見山まで運ばれたといいます。
昭和59年に、3メートルを越える大雪のため屋根が落下。このため一層の軒下まで解体修理し昭和62年に昭和の大修理が終了しました。 彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。
蟇股には凡字のほかに蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫りがあります。
また、三重の軒隅には「見ざる、言わざる、聞かざる、思わざる」を表した四猿のちょうこくがあります。」
写真↓は三重塔一階の屋根を支える力士の彫り物と、凡字の蟇股
妙見の大杉
妙見には、地上7.2メートルのところから幹が二つに分かれた樹齢1500年という杉の大木(夫婦杉)があったが、平成3年の台風19号で根元から倒壊してしまった。
八鹿町のシンボルでもあったこの大杉は現在、三重の塔の傍の切妻造りの建物の中に株が保存され幹の一部も塔のとなりに保管されている。
この大木の他にも、樹齢400年前後の杉の古木が多く自生している。
社務所と境内
石段を昇りきると、境内向かって左の少し高くなったところに立派な社務所がある。入口には龍と虎の彫刻が施され、かなり大きな建物だ。社務所一段下の境内は広々としていて灯篭が一対あるだけだが、正面に割拝殿の舞台のように石垣からせり出した建物が見え、圧倒される。
ここの境内は建物の大きさを感じるには、調度良いほどの空間だ。
割拝殿
石段を上がって正面に見える割拝殿は、石垣の前にせり出す舞台のようなつくりで、真ん中が通路になっている。正面が五間、側面が二間で、屋根は本殿と同じく入母屋造りこけら葺き。(元禄元年1688に作られたという。
割拝殿には大きな絵馬や但馬牛の絵が描かれた額が飾られ、通路の天井も鮮やかな彩色の名残が見える。
割拝殿には大きな絵馬や但馬牛の絵が描かれた額が飾られ、通路の天井も鮮やかな彩色の名残が見える。
割拝殿通路の両側に一つづつ部屋があり、片方の天井だけが真っ黒にすすけていた。これは日光院が上にあった頃、長年にわたってこの部屋で護摩をたいていたからだと言う。
本殿
本殿は正面九間、側面五間の大きな建物。
宝暦4年(1754)に作られたもので、日光東照宮の様式を取り入れたという本殿は、正面に向けて三角の千鳥破風があり(写真中)、その下に半円形の唐破風がある。
各所に手の込んだ彫刻が施されていて、木鼻や蟇股も獅子、龍、獏、鳳凰、牡丹、鶴、等等・・・・・見飽きる事がない
向拝の両側の柱には口を押さえた獅子と耳を押さえた獅子の木鼻が見え、屋根の軒下の力童子、また蟇股、海老虹梁などにも精巧な彫刻が多数ある。
平面は内々陣・内陣・外陣の三区に分かれその周囲に庇(ひさし)がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される
(兵庫県教育委員会による案内板)
本殿の彫刻
口を押さえた獅子の木鼻
耳を押さえた獅子の木鼻
龍の木鼻と獏(象?)の木鼻
手挟み
向拝の彫刻
蟇股(かえるまた)
海老虹梁とその上の手挟み
力童子
狛犬と灯篭
本殿両隅にある「火灯窓」の中の木製の狛犬
目の中に石の目玉も嵌め込まれていたという事だが、現在は左の狛犬の片目しかなかった。
名草神社と日光院
名草神社に上がる途中に最後の集落石原で「日光院」というお寺があり、名草神社の建物は元々は石原山帝釈寺日光院で(明治時代に山号を改め寺号を撤して妙見山日光院となる)、明治初めの廃仏毀釈によって寺領を没収、妙見宮を名草神社に改名されたということらしいです。日光院は現在の場所、石原に降りました。
「神社にも関わらず、仏塔である三重塔があるのには、そういう歴史があるのです。本殿の建築様式も、見事な密教建築といえます。割り拝殿の天井は、歴代日光院住職が心を込めて日夜「護摩」を焚いた跡が真っ黒く残っています」と、上記の日光院HPに解説してありましたので、興味のある方は上記リンクを読んでみて下さい。
※参考「但馬史」宿南保著/第5巻 より
『・・・廃仏毀釈によって山を強引に降ろされた日光院の様子・・・帝釈寺日光院は、9月5日に坊の一つであった成就院に降り、九鹿村から奥の小佐谷中は一戸から1人づつ出役して山上に集まり、妙見7尊体はじめ仏像・仏具・石地蔵・経典・・・をかついで降りた・・・・(略)午後に説教があり、近在からのたくさんの人が聞き入った・・・」
※名草神社(延喜式の頃には実在したと思いますが)が明治になってから突然に妙見社にその名を乗せたものであることは、詳細な資料がHP「日本の塔婆」に紹介されています。
是非この事実を読んでいただきたいと思います。
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