御祭神:素盞鳴尊(スサノオノミコト)/配祀神:稲田姫命(イナダヒメノミコト)
合祀神:大山祇命(オオヤマツミノミコト)
兵庫県養父市関宮1017-1
ご由緒
「伝へいふ皇極天皇元年西国悪疫流行せしかば但馬、播磨は国の中央なるによりて牛頭天王を但馬国羽山、播磨国廣嶺山に鎮祭して其厄の以東に及ぶ事を防ぎしに創り社名関宮又之によりて生ず。合祀大山祇命は天正10年(1582)鑛山守護神として崇められたる神なり。」(案内板より)
創建は、皇極天皇(641)といいますから今から1350年以上前。
関神社はその昔皇極天皇が西国の悪病が、都(京都)に入らないようにと廣峯(姫路)と羽山(関宮)の地を選んで素盛鳴命の御霊をお祭りになった。その功あって悪病が都に入ることを防ぎ得たので宮号を関宮(病を<せきとめた>宮)関神社とされたという。素盛鳴命は悪病除けの神様として全国に祀られている。
行き方
国道9号線の関宮交差点の信号を村岡方向に向かって右折してすぐ(というより、交差点角に神社はあります)
参拝した日は調度秋まつりの宵宮で祭りの準備をしている氏子さんからいろいろなお話を聞く事ができた。
御神木の大カヤの木、大ようの木、鎮守の森に包まれるようにして建つ立派な拝殿・本殿、綺麗に手入れをされ、社名の札もキチンと付けられた境内社のかずかず・・・とても整った感じのいい神社だった。
すぐ横を流れる小川は八木谷川(宮川)といい、神鍋から蘇武トンネルを越えたあたりの山から、二つに分かれ香住に向かう矢田川とこの八木谷川となり、この先は八木川に向かって合流する。
その川にかかる朱色の二つの橋にも祭りの幟がはためき、とても情緒があって美しい。大きな桜などの木々が橋の周囲を包んでいて春にはさぞかし美しいだろうな・・・と思った。
社域は石の玉垣で囲まれ、入口の鳥居から石畳の参道を経て突き当たりの石段を上ると拝殿・本殿・社務所があり、更に一段高くなった境内に境内社がある。
石畳参道の右は広場になっており、御神木のカヤの木、巨木のようの木、手水舎、神楽殿があり、参道左には御由緒の案内板、社庫、石碑、などがある。
大きな御神燈が下げられ、三つ巴の神紋を染めた幕が巡らされ、宵宮を待っている。(拝殿左より)拝殿の後ろ一段高くなった境内に本殿があり回廊(幣殿だろうか)で繋がっている。
出番を待つ神輿。まだビニールがかぶされている。右の神輿は御神木と同じく「カヤ」の枝で飾られていた。写真左はしに少しだけ見えているのが左境内社群へ続く石段で、五社を納めた境内社覆い屋と個人で寄進された小さいお宮がある。本殿の裏へ石畳が続き、右境内社群へと順路が出来ていた。
本殿後ろの杉木立の向こうは国道9号線の関宮交差点である。
本殿濡れ縁にあった二体の座像
宮司さんのいない神社は最寄の宮司さんの居られる神社が管理していますが、関宮一帯は「養父神社」の預かりとなっています。
養父神社にお問い合わせしたところ、氏子さんに聞いて調べていただけてわかったのです。
結論から言うと、この二体の座像は直接は神社に関係がないことになりますが、「楠木正成・楠木正行親子」でした。近くの小学校にあったものを時節が変わり(二宮金次郎像なども同様)戦後になって皇国史観が否定されると共に小学校からこれらの像は撤去されました。
その際に、近くであった関神社に奉納されたと言うことでした。
※参考・・・戦前まで美談として誰でも知っていた「桜井の別れ」の概要
『太平記』によると、「桜井の駅の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。
正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。
しかしその後の正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利方の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害した。
先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。(ウィキペディアより)
境内社
境内社は、まず本殿左境内に、
(向かって右から)
①〇〇蘇民将来の御玉串(〇〇のところがよく見えませんでした。)
②河原大権現/金刀比羅大権現
③天照皇大神/八幡大菩薩/春日大明神
④西宮大神宮/大黒天
⑤粟島大明神…の五社を納めた覆い屋と、その左に個人の方が寄進されたという大地主命/大直日神/神直日神を祀る小さい社。
蘇民将来(境内社右端)/牛頭天王/素盞鳴尊について
昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき弟の「巨丹将来」は裕福なのに冷淡にあしらい、兄の「蘇民将来」は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。
牛頭天王は平安時代に都市部で信仰されるようになり、祇園御霊会(祇園祭)において祀られるようになったとされる。京都祇園の感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇された。
仏教では、東方・浄瑠璃世界の薬師如来の垂迹ともされる。またスサノオと習合したことから、日本書紀にスサノオが居たと記された新羅の曽尸茂利(ソシモリ、牛頭)に関係する神ともいわれる。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まった(神仏習合により、牛頭天王を本地とし、スサノオはその垂迹とされる)
※本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである
本殿右の境内社五社(左から)
明治維新の神仏分離によって、日本神話のスサノオを仏教信仰に組み込んだ牛頭天王は徹底的に弾圧された。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、当時の国家神道の八坂神社に強制的に改組された。全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。(ウィキペディアより)
御神木「かやの木」と巨木「ようの木」
★御神木「かやの木」
鳥居の近くにある大力ヤは、樹齢約500年、樹高25メートル以上もあり、根周りは4メートルを越える。
明治28年頃道路工事で残土を境内に埋め立てた時に、幹の1.8mくらいが地中に埋ったという。
カヤの木は雌雄異株で、この木は雌木で実も良く着くらしい。
境内には他にも大きな木が多く、古い歴史を物語っている。
★大ようの木
カヤの木の近く境内隅にようの巨木がある。病気がついたのでだいぶ刈り込んだところだと言う。この木の後ろは八木谷川で、川沿いの小道は木陰で涼しく風情がある。
※ようの木・・・欅の仲間。欅ほど堅くないので彫刻等の原材料として適している。(氏子総代の西村様のお話より)
※西村さんのHP
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