かもんかか物語(下巻)

沢右衛門、牧女悪事をたくらみ助次郎を殺す事

さても沢右衛門は牧女との密通を助次郎に悟られし事を当惑し、万一掃部に漏れなばたちまち身の大事とならん、もはや助次郎を失はんより外に思案なしと種々に心をくだけども、すべき様なければ、ひそかに毒薬を求め来り牧女へ言ひけるは、

「先だってよりその方と我密事を語りしを助次郎怪しみしと聞けば、何となくこの家へ来るも底気味悪しく、彼が気を付けん事を案じ、御身に近寄らん事もなりがたし。

かたがた以て彼が居ては我等が邪魔なれば、人知れず毒害し殺さんと思ひ、薬を持参せり。御身よき時節を窺がひ、人知れず彼が食物の中へ入れて食わすべし」と言ふ。

牧女さしうつむひて思案の体なり。
沢右衛門、「その方はいかがなる心得ぞ。毎度言ひ聞かせし通り助次郎を殺して後機を見合わせ、掃部親子をも失はば我等この屋に世話人となり、金吾を守り立て、後を継がせば、我その方と思ふ侭に楽しむべし。

しかし急に三人を殺さば、助次郎が倅、勝五郎(始めは勝之助と言ひしなり)ひとかたならぬ曲者なれば、万一毒害の事を悟らばいかなる目に逢はんもはかり難し。されば、先ず試しに助次郎を殺し、様子を見るべし」と言ふ。

牧女は沢右衛門と深く言い交わせし上、中老に近き掃部なれば、壮年の沢右衛門に心迷ひ、小声になって

「されば毒害の事、われ都室町にありし時、憎しと思ふ女ありて、これに毒を呑ませしが、やがて口より血を吐き、目鼻ともに血あへとなり、空をつかんで叫び苦しむ有様、心地よしとは思ひながら余りに見る目のいじらしかりし故、また助次郎もかようの目を見すらんかと心うく思案せしなり。
外に思案はなきや」と言ふ。

沢右衛門、「いや、それは一通りの毒薬ゆえたちまちに当って左様に苦しむなり。わが持参せし薬はさにあらず。

最も高金の薬なれば、吐血する様の事はあらじ、早く廻りても四、五日は患ふべし」

牧女悦び、「さらば、折を見合せ用ゆべし。事の成就するまで、必ず当門へ度々は来り給ふな。もし悟られては一大事なり」と、
なにげなき有様は、恐ろしかりけるたくらみなり。

かかる侫奸の悪女なれども邪知人に勝れ、容粧麗はしく、よく人をなづけ、掃部親子へ実意を見せて日を送る。

ある時、よき序のあるを幸、かの薬を助次郎が食物の中へ入れ置きたり。
助次郎は何心なくこれを食いしが、何となく気分悪く、妻の方へ行き、大きに腹痛して苦しむ。

掃部行きてみるに、俄に腹痛み五体ひきつけ候といふ。
医師を招き容体を見せしむるに、何とも名をつけず、変病の由をいふ。

掃部驚き、種々針薬を尽くし療治すといえども、少しもしりしなく、総身黄色に変じ、苦痛甚だしかりければ、子息勝五郎はその節、城主・修理殿八木へ参られ、大島兵庫も御供なれば勝五郎を召しつれらし故、俄に飛脚を以て旨を通じける。

勝五郎、使とともに馳せ帰り掃部病気の次第を語りければ、勝五郎、父の面色をよく見て、あらいぶかし、これは毒に当りし様子なり。

最早全快なりがたかるべし。残念の次第やと、涙を流してかなしみけるが、発病の日より四日と申すに終に落命す。

女房、娘、歎きかなしみければ、牧女は助次郎が枕元に伏しまろび、
「これはいかなることぞや、我ここに来りてかくなりしも、この人のお世話にて、その上、よろずに付けて心を付け給はる故、親とも兄妹とも頼もしく思ひしに、俄に空しくなられし事のかなしさよ」と、

倒れ伏して泣きかなしみ、声をあげてくどきしはよその見る目もあはれに見えし。かかる奸女とは知る人さらになかりける。

哀れなるかな助次郎は、父、池田助左衛門が遺言を守り、農家に下るといへども主人に二つ心なく忠義を尽くし、我が身の事は打ち捨て掃部に奉公怠りなく昼夜心を尽くし、勤めし故、掃部も片腕なりと力に思ひたりしに、我心の律義なるままに、牧女、沢右衛門が内心の侫悪を悟らず、かかる奸計に逢ひしは無残なりし次第なり。

この時、康正二年の子の八月、まだ散り初めぬ紅葉の思はぬ嵐に吹き落され、野辺の塵とぞなりにける。

沢右衛門も助次郎が卒去を歎き、内心は悦びの笑を含んで居たりける。
日数のたつままに五十日も過ぎ行けば、助次郎が子息、勝五郎も武家奉公の身なれば、泣く泣く兵庫殿の内へ帰りける。

沢右衛門は心うれしく、掃部の家に入りかはり、何かとの世話など勤め、掃部親子の目をかすめ牧女と密通して楽しみけれども、両人とも邪智勝れたる侫奸なれば悟られず、牧女と言ひ合せ掃部親子の心に叶ふ様に諸事をよくよく勤めければ、何事も彼に打ち任せて居たりしは浅ましかりける事どもなり。

沢右衛門、居宅を宿南へ移す事付、両人心を合せ左衛門を呪咀する事

沢右衛門は謀計半ばまで成就するといへども、掃部親子に心を兼ね、思う侭にも振舞はれず。

ある時掃部に願ひけるは、「我独身の事なれば、かかる時節に世話申し、御恩をも報じ奉り度く存ずれども、住家隔たりて心に任せず、深谷(みたに)の里は余り山奥なれば、当所に僅かなる部屋にてもしつらひ我住家とせば御用を勤むるに勝手よく、又、我渡世も致しよからんと存ずれば、御近所に住家を建て度きよしを語る。

掃部は彼等が心底の悪事を知らず、「成る程独身の其許なれば、当家にありて苦しからずといへども、別に我住家なければ不勝手のこともあるべし。当所に引き取り然るべし」とて、俄に深谷の居宅を宿南へ移し、掃部の用を勤めける。

牧女は沢右衛門と心を合せて助次郎を殺し、これより掃部親子をも失はんと思へども、助次郎が毒に当りし様子を子息勝五郎が悟りしを気味悪しく思ひ、最早術(てだて)はなしがたし、万一我仕業(しわざ)と思はれては一大事と思案を廻らしけるが、われ都にありし時、ある人を呪咀し、さる神社へ祷り、森の木に釘を打つ事三十三本なりしが、いつとなくこの人煩ひつき、一年をも待たずして身まかりしことあり。

さればこの術を以て左衛門を殺しなば掃部も自然と煩はるべし。その時薬の中へ少しづつ毒を加へ呑ませなば、人にも悟られず思ふままに願望成就すべし。

これ屈強の思案と思ひ、ひそかに沢右衛門にこの旨を語りければ、沢右衛門大きに悦び、これに過ぎたる術なしと、早速釘三十三本調へ来り牧女に渡す。

牧女心得、毎夜丑の刻とおぼしき頃、諏訪明神の森近ければ人知れず参詣し「南無諏訪大明神、わが立願をあわれみて当年二十二歳の男なる継子、左衛門が一命をとりてたび給へ」と念願し、後なる神木に向ひ、左衛門が胸先のあたりとおぼしき所へ一心不乱に釘を打つ事、七夜の内に三十三本。

たとへ百歳の寿命ありとも、我念力やはか通さで置くべきかと、毒蛇の如き有様にて前に立ちたるは、おそろしかりし悪女なり。

 (この時、狼、明神の神力をかりて牧女をとり、化して牧女と変じ家へ帰り左衛門の病気を救ふ)

左衛門これまで侫悪の牧女が内心の謀計を知らず、偽りて愛するを真実と思ひ、実母よりも大切に孝心を尽す心の内ぞいたはしけれ。

沢右衛門病気の節より牧女悪心替りて実意に変ずる事付、沢右衛門変死の事

かくてその年も暮れ、明くれば長禄元年二月始めより左衛門、何となく病気付きけるが、日数のたつに随ひ次第に重もりければ、掃部はいふに及ばず、継母ふかくこれをかなしみ、様々に療治に手を尽すといへども、薬力のしるしも見えず、ただ鬱々として胸を傷め、夜に入れば苦痛甚だしかりければ、牧女顔色を変へて大きにこれをかなしみ、夜といへども帯をも解かず、昼は片時も病人の枕元をはなれず、懇ろに介抱せる事、なかなかなみの人の及ぶ所にあらず、人々奇特の思ひをなしける。

掃部は種々の妙薬など調へ、又神仏に祈り誓ひをかけ、頼み少なく見えにける。
ある時、下男あわただしく掃部の前に手をつき、
「さても今朝、沢右衛門様来たり給はず、家の戸もあけられざるゆえ、参りて見れば、庭に倒れ居らるる故、よくよく見るに五体氷の如く息絶えて候」といふ。

掃部驚き、
「それはいかなる事ぞ。夕べまで何の事もなかりしに」と言ひつつ牧女にこの旨をかたりければ、牧女驚ける体にて、
「左衛門殿大病と言ひ、ひとかたならぬ事哉、早く行きて様子を御覧下さるべし」と言ふ。

掃部、下男両人を召しつけ馳せ行きて見れば、いかにも下男が告げしに違わず、身体こはばりて木の如くなれば、もはや針薬も叶ふまじと死骸をよくよく改むるにさして疵もなく、のど笛あたり少しあやしき跡あれども死する程の疵にもあらず。

いぶかしみながら下男近所の者を呼び集めさせ、死骸を座敷へかきあげ夜具にてよく包み置き私宅へ帰り、右の次第を語りける。

牧女も兄の事なれば行きて見ずんばなるまじと言ひつつさして動ずる気色なく、左衛門殿へよくよく気を付け給はるべしと伊言ひ置き、下女を召し連れ、静々行きて五体をとくと見廻はし、これは思ひもよらぬ有様なりと泪を浮かべ、集り居たる人々に向ひ、
「皆々御世話頼み参らせ候ぞや。掃部殿去秋は手代助次郎を失ひ、左衛門は大病、その上、我兄、沢右衛門殿までかくなりしも不仕合せの因縁廻り来りしならん。
かかる憂目を見る事よ」
と、顔に袖をあて、声もたてずさめざめと歎かる。

人々これを見て、流石、掃部の奥方なり、去秋助次郎死去の節は、人の見る目も恥ぢず声をあげ歎かれしが、一人の兄の死去には人目を恥ぢて愁傷の色を見せず歎かるる有様、心の内押しはかりいたはしくぞ思ひける。

牧女、泪をおさへ、
「我、ここに居りたりともせんなき事、病人こそ大切なり。暫らくも我をはなし給はねば、早々帰り申すべし。ここは何れもよき様に頼み参らすると言ひつつ下女引き連れ帰りける。

左衛門は牧女の帰らるるを待ちかね苦しげなる気色にて、
「母上、沢右衛門はいかなる事ぞ。我等かく大病にて快気に趣かず、助次郎と言ひ沢右衛門殿まで相果てられなば、金吾が未だ幼年なり。

父上の御事、この上如何かと心もとなく、兎も角も力を落し給はずして父の心をもなぐさめ給へ。この段、頼み参らす、と泪を流しければ、牧女、左衛門の側により、

「よく聞き給へや左衛門。
当家に於て第一に大切なるは御身なり。我が為には外に力とする者なし。金吾は未だ幼年なり。掃部殿とても中老に近き御身なれば、行末如何と心もとなし。

御身こそ杖柱とも頼み、その上先妻綾女様を忘れ難く、形見とては御身ばかりなり。
御身に万一の事ありては、人になき事までの名を立てられんもはかり難し。
我等親子、身を捨て継母の潔白を顕はさんとまでも思ひ暮らし候なり。

されば御身一人の命にあらず。
母と金吾、御身にかかる、ここを察して気を張り神や仏の御加護を蒙り、早々本復し給ひて我等が心を休め給へ」と、泪を浮かべ、気を励ましける。

左衛門、牧女のことばを聞き、
「我等発病の節より、万につけて心をつけ給ひ、近頃病気重もるについては夜も帯をとき給はず、暫しの間もまどろみ給はねば、数日の御介抱に御身の疲れにや、やつれさせ給ふ顔色見参らするにつけても、何卒、一度全快し、この大恩を報じんと心には思へども、我が身の病苦に責められ、御心を休める様にも成らざるは、よくよくの業病と思ひ、我が身ながらあさまし候」と、苦しげにぞ悔みける。

牧女泪を浮かべ、
「先妻綾女様は進美山の観音に深く心願をかけ給ひて二人の男子を設け給ふと、助次郎の妻語りしなり。

伝へ聞く観音菩薩は、誠に勝れて大慈大悲の御威力深く、三十三身に御身を分け、末世衆生の願をかなへ、如何なる災難ありとても観音の御威力に叶はざるはなしと聞く。

されば普門品の中にも≪咒咀諸毒薬所欲害身者念彼観音力≫ともあり。
又、≪生老病死苦以漸悉令滅≫とあるをや。

御身の病気重しといへども、我一念を以て観音菩薩に願をかけん。
兄の喪中なれば神への祈願は恐れあり。
進美山の観音こそ御身の為には因縁あれば、共に信心し給へや。

我等親子は代りに立ち一命を果たすとも助け得ではおくまじと、髪を洗ひ、身を清め、左衛門の机の上に観音の画像を祭り、香花を供へ、一心不乱に祈る事七日七夜、少しもまどろむ気色なく、さしも美はしき顔も相形変りて見えければ、看病の者ども、身の毛よだちて覚えける。

この奇特にや、左衛門の苦悩忽ちさめ、削るが如く本復せり。
掃部夫婦の悦び譬ふるにものなし。
不思議なりしは、頓死せし沢右衛門、住家を片付けしに、着類を入れし鋏箱一つあり。よくよく改め見るに切金二百貫分、所持せり。

日頃困窮の沢右衛門なれば、皆不審に思ひける。されども、掃部の大太刀、小刀を盗みとり調達せしものと心付く者なく、大太刀は他国の盗賊の仕業の様に風聞して過ぎ行きける。

牧女実意之事付、金吾頓死之事

さても左衛門は継母牧女の信仰によりて病気平癒し、家内中悦ぶも其の頃より弟金吾病気づき、明春枕に臥しけるが、日々に病気重もりければ、掃部始め兄左衛門大きに悲しみ、種々療治をなし介抱しけるが、実母牧所はさして驚ける色もなく、気にかかる風情も見えざれば、左衛門牧女に向ひ、

「金吾が病気この頃は日々に重もり、心もとなく存じ、薬は勿論御覧の通り神仏へ祈誓をかけ候へ共何の印もなく、最早全快なりがたしと思はれ、父も殊の外気を傷め給ふにつき我とても只一人ある弟故、子の如く思ひ、不憫に候故、明暮心を傷め候に、母上は何とて我等が煩ひし時の様に介抱はして給はり候はぬぞ。

金吾が病気をも我が煩ひし時の如く御心をつけ、又神仏にも祈念して候へ。」

彼女打ち笑ひ、
「さればとよ、金吾が病気も頼み少なき様に見ゆれば不憫には思へ共、人の命は定りたるものなり。
寿命あれば御身の如く大病にても全快せらる。

如何なる妙薬にても無き命は詮方なし。
金吾も寿命あれば本復すべし。定命なれば死すべし。
命は天運に任かせ置くべし。

斯く申せばとて療治無益と言ふには非らず。されども命の事は神仏の力にも叶はぬものにや。天子将軍の御身だに御寿命限りあるにや。
かへなき大切なる公達方にても早く世を去り給ふ。

これ皆因縁のなせる所なり。
御身だに堅固にてましませば、幼年の金吾は枝葉なり。
さのみ気をいたむる程の事あらず。
ただ、御身弟金吾が病気を心配せらるるこそ心得ね。

其方は元なり彼は末なり。枝葉の為に根元の身をいため給ふ事を我是をいたむ。
よく心得て夜深更に及ぶまで休息もせずして、病後の身体をいため給ふな。

見らるる通りこの母もなりたけの介抱は致し、万につき心いっぱい気も付け候へ共、此の上の事は彼が運次第なり。」と言ひて、何気なき気色なり。

掃部傍らにあって是聞き、
「其方が申すは真実の義理を申す言葉なり。そもそも人間は高きも賎しきも、もののあはれを知らずばあるべからず。
金吾ようやく九才になりたれば、未だ幼き者なり。

されば兄の左衛門が如く勘弁あるべからず。
幼少の子、かく大病をとり結びし上は深く心を付け、寸暇も目をはなさぬは親の愛念なり。

然るに兄の左衛門が煩ひの節は、数月の間だ枕をはなさず、一夜といえども帯を解きて寝しを見ず、寝食も忘れ身体痩せ衰ふる程気をいため看病せし事、なかなか実の母たりとも常人の及ぶ所にあらず。

其の上観音に祈願をかけ、祷りし有様我妻ながらおそろしく、心の底にはかかる義念深き女ありけるかと感ずるに堪へたり。
其方に依り兄の左衛門は忽ち病気全快せり。

是全く其方が念力にて左衛門の命を助けしものなり。
さればとて、今金吾が介抱おろそかなりと言ふにはあらず。
然れども左衛門が看病に比ぶれば、十分が一にも過ぎず。其の上心痛の顔色も見えず、是はいかなる道理ぞ。五人七人子を持つとも乙子は父母に添ふ間短きが故に、乙子程愛情の深きは人間の常なり。われ兄の左衛門に愛心薄しとは思はね共、幼少の金吾が病に苦しむを見れば、腸を断つが如く不憫に思ふなり。

されば、左衛門が病気の時の如く観音に祈誓をかけ、彼が命も助けてやり候へ。
我等も共に祈願をかくべし。」とありければ、牧女是を聞き、
「君の仰せに似合はぬことを宣ふもの哉、それ人は子の愛情に迷ふといえども、善悪の二つは如何なる愚かなる者にても差別なきは人間の霊徳なり。

我身に私ありては道に叶ひ候まじ。我左衛門の煩ひに心身を傷め悲しみ、諸神諸仏に祈誓をかけしは、第一家の為、第二は夫の為、次にわが身の為なり。

今、金吾はわが実子なりといえども、幼うして賢愚わかりがたし。左衛門殿は継子なりといえども、成人して智も勝れ、殊に義理ある先妻の子なり。
ここを以って、われ私の勝手を振り捨て、誠の道に随はんと思ふ故なり。
さればとて肉身を分けし幼少の実子なれば、愛情の深き事は恥しながら左衛門殿に勝りたれども、事をわけぬわが子の愛情に迷ひ、神や仏に御苦労をかけ、いかなる御願を立てたりとも何とて納受し給はん。

とにもかくにも人間は道にたがいて神仏へ無理なる願をかけ、叶はねばとてわが邪に心付かず神仏を恨み、かえってその身に罰を受け、家をも身をも失ふ様の事、世には例多し。

此度の左衛門の煩ひ、なかなか本復し給ふ病気に非ず。それゆえ神や仏に祈誓をかけたれども、どても叶はぬ病とさとり、此の人もし果てられなば我は継母と言ひ、実子両人まである身なれば、かたがた以ってわが心は潔白にても世の人の口は塞がれず、それゆえ実子金吾が一命を兄左衛門殿へたまはり候へと、念願深く祷りしなり。

されば歌にも、
『心だにまことの道に叶ひなば 祷らずとても神や守らん』

愚なる我なれども、大事と思ふ心の一念神仏に通ぜしにや左衛門の病気平癒し給ひ、金吾が病の出でたるは、彼が命をちぢめ左衛門へ給はりしものならんと、嬉しくもなお尊くも思ふが故、彼死するは悲しみならず」と言ひて左衛門に向ひ、
「是程まで大切に思ふ御身なれば、疎略に御身を持ち給はば此上もなき母への不孝ならん。それ故にこそ金吾が病気などに心をいため給はるなと申せしなり。」

掃部親子これを聞き、何と言ひ出す言葉もなく、さしうつむいて居たりしが、左衛門両眼に泪を浮べ、母牧女の側に寄り、
「是まで我を憐れみ給はる事、いかなる慈悲深き実母にても及びがたき御親切と思ひしが、か程の事とは思はざりし悔しさよ。」

牧女顔をあげ、
「行き届かぬ此母を実母より大切にして給はる故、心の底を明かせしぞ。
我心をあわれみ給はば母の命のある内は身を大切に持ちてたひ給へ。金吾苦しむ体なれば、薬を呑ませ申さん」と、病人を介抱し、泪を流していたわりける。

掃部は始終を聞き感じ入りて居たりしが、
「如何にや左衛門、よく聞き候へ。我は実の父なれども、汝を思う親切、母が心にくらぶれば、十分の一にも及び難し。一生忘るる事なかれ。
ただ、不憫なる金吾が身の上、何卒助け得させたし」と泪をおさへ居たりける。

金吾は日数たつ侭に病気次第に重もり、九才と申せしに蕾める花の咲きも得ず、葉末にとめし露の玉、消えてはかなくなりにける。

掃部親子は骸にとりつき、声をあげて泣きたりしに、母牧女は歎きもなく、かねて覚悟の事なれば、今更歎くは迷ひなりと、さあらぬ体にて居たりける。

され共、月日の立つに随ひ恩愛の別れ心淋しくなりしにや、妹の幼女を抱きながら人々に語りしは、

「誠は先の綾女様はただなき堅女と聞きしが、鶴千代殿と言ふ寵愛の堅子を喪ひ給ひ、御身も終に果て給ひしは、哀はれなる御事かな。
我も一人の男子を喪ひしに、其当座は気を張り詰めし故か、さ程悲しくも思はざりし。
日数積もらば忘れやせんと思ひしに、さはなくして日を送るに随ひ、次第に悲しみ増す様に思はるるなり。

それにつけても綾女様の御事思ひやられていたはしく、ただ何事も過去の因縁なれば、先立ち給ふ方々の御追善こそ大切なり。」と、
先妻の忌日には身を清め、香花を供へ、墓所へ参り、下向の序の折々、老僧真禅法印の庵に立ち寄り、仏法の要文を聴聞し、又式日には氏神諏訪神社へ参詣し、夫や左衛門の無事を祷り暮らせしは、奇特なりし心得なり。

勝五郎掃部の家へ帰る事付、真禅法印往生の事

池田勝五郎(勝之助)は数年、城主宿南修理太夫の出頭大嶋兵庫の方に有りて勤めけるが、元来武道を好みし故、彼の弟子となり、兵法軍学に秀でし者なり。

父助次郎卒去し、其後沢右衛門も果てたれば、掃部勝五郎へ帰るべき由度々言ひ遣はしけれども、折節病気にて有りし故、主人と言ふ大恩師範たる事なれば見捨てて帰る事なり難く、日を送る内兵庫も相果てられしかば、掃部の内へ帰り、父助次郎が如く勤めける。

彼が弟に竹市と言ふ者あり。是も成長し名を新七と言へり。
老母一人の娘を連れたり。是は生まれつきさし足にて歩行人並みならず、名は国女と言ふ。

後には母、新七、国女三人とも沢右衛門が宅へ移りける。新七、助次郎が後相続の者なれば、掃部より田畑を貰ひ、農業を営み心安く渡世す。

ここに怪しき事あり。

ある時、掃部、牧女を伴ひ真禅法印の庵へ行き、仏法の要文を聴聞し帰りの節、法印に向ひ、わが如き浅ましき身は、何卒戒を授けさせ給へと願いける。
掃部は先に法印の前を退出し外にありしが、牧女後に残りし故、立ち帰りて見れば、法印牧女に向ひ、何やら口の中に秘文を唱へ給ひて後、牧女の顔に数珠をあて両眼を閉じて『南無狼形善発菩提心巧徳円満浄土往生古諸仏愛愍護念』と唱へ、十念を授け給ふ。

掃部は聞きけれども其心を得ざれば何心なく牧女と一所に帰りける。

真禅法印は寿八十余歳、行道は往古の高野山明遍僧都の如く、一心専念の行者なり。
ある時、随心の人庵室へ参詣せしに、、折節仏前へ看経して居給ひしが、後をかへりみて「よくこそ来り候ぞ。われ日頃の念願今日成就す。寺中へ此旨伝えてたび候へ。」

と、又仏の方へ向ひ声高に念仏せる事百遍ばかりにして端座合掌し、唱名の声と共に息絶え給ふ。

彼の人驚きあたりを見れば紫雲庵の外に満々たる事煙の如く、妙香天地に薫ず。

感応肝に徹しければ急ぎ光明寺へ馳せ行き此旨を伝へ、又後へ帰り法印の後へ礼拝し信仰の泪を流しける。
直に光明寺へ尊骸を送りける。

奇特なりし往生なり。

山伏狼に逢ひ難儀の事

ここに伯州汗入郡岩根と言ふ所に威妙院といふ積徳の山伏あり。
諸国の霊山に順拝しけるが、丹後の国、河守、元伊勢大神宮へ参詣し、序に文珠に参り、天橋立、其外浜辺の名所聞き及びしままに一見せんと思ひ立ち、伯耆(ほうき)の国を発足す。

寛正五年卯月始の事なりしが、威妙院当国へ来り妙見山を拝観し、それより丹後の方へ急ぎしが、日も暮れかかりければ、上小田の里にてある茶屋に休み、是より出石郡宮内と申す所へは道程何程なるぞと問ふ。

茶屋の主、凡そ三里ばかりあらんと言ふ。

「さらば是より先、宿のあるべき村里ありや」と訊けば、
「これより三十町行きて浅間と言ふ里あり。此所は伽藍ありて大村なれば宿屋あるべし」

道の様子を問へば、
「伊佐川と申して舟渡あり。七、八丁野道を行き、少し山のうねりを過ぎて彼の里なり」。

さらば彼の里まで行くに日は暮れまじと心安く思ひ、殊の外空腹なりければ酒を飲み丹後道中の様子を尋ねなどしてはからず時刻移り、日も暮れければ打ち驚き、早く浅間の里へ着かんと茶屋を立ち出で急ぎしが、道にくたびれし上空腹に酒を飲みし故、思はずひまどり、ようやく伊佐川に着きける時は、はや人顔も見えばこそ、向うに渡守ありと聞きし故、声を限りに呼びけれども、折節前日の長雨に水嵩高く、渡し守も向うに居合せざるにや半時ばかり音もせず。

やや暫くして答えし故、舟を待てども高水故に手間どりければ、磯に着くを待ちかね乗り移る。

「浅間へは何程ありや」と問へば、渡し守「此野を八、九町行きて山あり。其麓を三、四丁行けば彼の里なり」と言ふ。

さては遅くなるべし、と舟より上り急ぎ行く。
かように時を移せし故、暗さは暗し。

道の案内は知らざれども、一筋道と聞きしより足に任せて歩めども、折節時雨降り来り風烈しくもの凄ければ心せき、向うを見れば暗き夜なれど山ある気色に見えければ、是を目当てに急がんとせしが、山の麓に狼ありて、啼き声地を響かす。

気味悪く思ひながら、よくよく見れば、狼二、三十匹もあらんと思しくて、道の真中左右に群集し居りける。

是は如何と恐ろしく後へ帰らんと後を見れば、後にも狼五十匹ばかり顕はれ出で、道も畑も狼の如くなれば進退ここに極まりて、後にも先へも行く事ならず、如何せんとあたりを見れば側に大きなる榎あり。

農夫ども大小豆など数多懸ける木と見えて、一、二の枝南北に長くなびきて高さは僅か二丈に過ぎず、芯なくして舟の碇を立てたるが如し。

是ぞ屈竟の事なりと思ひ、走り寄りて彼の木に飛びつき、節、瘤、小枝に手をかけ登りて見れば、四方に枝あれどもようやく高さ二丈に過ぎず、声を挙げて人を呼ばんと思へども、身の疲れたる上空腹にて心もおくれ声出でず、かねて所用せし守り刀を取り出だし、右の手に是を持ち左にて木の枝をしかと抱へ居たりしに、前後の狼百匹ばかり木の元に群がり来て、上なる山伏目がけて飛びかかる事、イナゴの飛ぶにことならず。

されども行徳勝れし山伏なれば、悪獣降伏の秘文を唱え、枝を力に身をかため、近くよらば突き殺さんと刀を構へ、心を静め居たりしが、人家遠ければ声も届かず、時を移せし程に夜も深更に及びける。

狼代る代る飛び上がりけれども、七、八尺ばかりより高くは登らざれば、恐るるに足らずと思ふ所に、集りし狼、木元に伏すぞと見えしが、やがて上に重なり重なり俵を積み上げし如く、一の枝まで重なり登る。

山伏是を見て驚き如何せんと思へども、芯なき木なれば高く登る事叶はず、身を留めし所、ようやく一丈四,五尺ばかりなりなれば気も魂身に添はず危なかりし次第なり。

やがて上なる狼山伏の足に喰いつかんとせしが、威徳にや恐れけん、頭を垂れ下へ転び落つる事度々なり。

始め落ちし大きなる狼怒れる姿にて、西を指して飛び去りしが、十町ばかり隔たるとおぼしき所に叫ぶ声しきりなり。

啼き声のうちに折々「カモンカモン」と聞こえければ、山伏不思議に思ひ、是まで狼の吠ゆる声を聞きし事なし、怪しき事かなと思ふ所に、暫くあって其形勝れて大なるが飛び来って上なる山伏を見る二つの眼、耀く星の如く光り、身の軽き事、飛鳥に異ならず。

山伏の持ちたる守り刀に眼をつけ、飛びつく事稲妻の閃くが如く、恐ろしなんど言ふばかりなし。

終に山伏の右の袖に喰いつき引き落さんとす。
持ちたる懐剣にて突かんとなせども、袖口を銜えて引きし故、心はやたけにはやれども、左の手は木の枝を抱えたれば働き得ず。

されども、強気の行者なれば少しも騒がず、壊剣を持ちたる手をもぢり狼の眉間を一刀突きしが、狼少しも屈せず飛び上がって壊剣を咥えながらどうと落ちしが、かき消す如く消え失せける。

数多の狼四方へはっと逃げ去って木元へは一匹もなく、山伏は守り刀をとられけれども身に怪我のあらざれば、是神仏の加護ならんと木の枝を力に夜の明くるを待ちける。

はや東雲明けわたりければようように力を得、声を限りに助け給へと呼びかける声、浅間の里に通じ、人多く来りし故、木より下り今ぞ命を得たりしと、人心地になりたりける。

諸人山伏へ如何したる事ぞと問ふ。

山伏、狼の次第を語り、殊の外身体疲れたる体なれば薬を飲ませ、食を与え、此あたりにて狼を見ること稀なり、是は不思議なる哉と言ふ。

山伏、さてこの辺に「カモン」と言ふ者ありやと問ふ。
「掃部と言ふ者、我等が里へはなし。是より二十町ばかり西、宿南の荘にこそ高木掃部と言ふ人あり。是は百姓なれども農家にあらず。武家百姓なり」と言ふ。

山伏の登りたる木のありし畑は、今は田地となり其字<一本木>と言ひ伝ふとかや。

山伏掃部の家に尋ねきく事附、牧女狼の変妖顕はるる事

さても威妙院つくづく思ひけるは、かかる稀代の不思議こそなけれ。
夕べ狼数多集まりて我を捕らんとせしに、剣の威徳にや、喰ひつくこと叶はず、後に来りし一匹の狼は其有様凄まじく、働く事飛鳥の如く、我を喰ひ殺さん事安かるべきに、我自体に目をかけず、眉間を一刀切られながら壊剣を奪ひ、かき消す如く消え失せたり。

余の狼も是を見て四方に逃げ去り失せし事、何とも合点ゆかず、是亦不思議の事なり。

人の言ふを聞けば掃部の家はかの西の方に当れり。狼西をさして去り、連れ来りし怪狼守り刀を咥へ取って失せしは、かたがた以って訝しき事なり。

我等も元来縁の行者の後を追ひ、捨身行をなすが故、紀州大峯に数度の歩みを運び、出羽の白山、越中の立山、駿河の富士山、其の他諸国の霊山に登り、深山幽谷の魔所に入る事度々なれども、かく怪しき目に合はず、かかる不思議を見顕さざるは行道の行き届かぬに似たり。

何様掃部と言ふ人の方へ尋ね行き様子を聞きたださん。
別儀なければ、其侭格別遠方にあらざれば、さして手間どる程の事もなしと、それより宿南へ渡り、当所に掃部と言ふ人ありやと訊きしに、里人居宅を教へければ、山伏尋ね行き、

「拙者は伯州の修験威妙院と申す者なり。卒爾ながら、寸時お尋ね申したき事ありてお伺ひ申せし。」由を言ふ。

掃部立ち出で対面せしに、歳五十ばかりに見ゆる人体よき山伏なり。
一応の挨拶をなし、
「さて、夜前御家内に何か変りたる事は御座なく候や」

「何も変わりたる事なし」

「もし家に烈しき犬狼の類など養ひ給はずや」

掃部「左様の事なし」と

「御家内御人数は幾人ぞ」

「我等夫婦に二人の子、召使五人」

「然らば御人数九人の内に、面体に疵など付かれし方はなきか」

掃部、不思議に思ひ、此山伏は異な事を尋ねらるるもの哉と思ひ、さし俯き、
「さしたる事はなく候へども、夕べ愚妻便所へ行きしが、過って転び額を打ち痛みつよしとて今朝未だ起き候はず」

山伏、俯き思案の体なり。
「その怪我につき仔細ありや」

「いや、仔細と申すにては候はねども、御内室の御疵もし刃物の類にて突かれ給ふ疵にては候はずや。よくよく御覧あるべし」と言ふ。
子息左衛門側に居りたりしが、何様合点ゆかぬ事を言ふ山伏かなと思ひ、急ぎ母の枕元に手を付き

「御疵の痛みは如何候や」
と尋ねれば、牧女、さしたる事にてもなしとなり。

「さて、不思議なる事を申して来る者候。伯州の修験なりと申して先刻来り、母上の御怪我の事を申すに付き、何とも合点ゆかず、如何なる曲者にてかかる事を言ふやらん、追ひ出さんと思へども、母上の御事心元なく御尋ね申すなり。」

牧女これを聞きて、
「その山伏全く曲者にあらず。何卒奥へ招き、休息致し候様はからひ給へ。若し辞退せば母が内々頼みたき事ありと申し候へ。返す返すも如才のはからひし給ふな。随分敬って座敷へ通し候へ」

左衛門は何とも心得ぬ事を申さるる事やと思ひながら勝手へ出づる。掃部も牧女の枕元に座して疵の痛みを問へば、

「さしたる事にても候はず、それに付き、山伏の来る由、唯今左衛門が申されたり。
是には深き様子のある事なれば、かの山伏をとめ置き下さるべし。

委細はやがて物語り候はん。必ず、必ず山伏へ無礼なき様に御はからひあるべし」となり。

此時、娘民女五才にて母の懐へ居りたりしを、下女に言ひつけ、「今日内に取り込み事あれば外へ連れて出で候へ、用事あらば呼ぶべし。それまで内へ帰り候な」となり。

掃部いよいよ不思議に思ひながら、勝手へ出で威妙院に向ひ、
「初めての御入りなれば近頃卒爾に存じ候へども、暫く私宅にて御休息下さるべき由、愚妻申候也。
是へ御通りあるべし」となり。

威妙院気味悪く思ひながら、さては仔細あらんと察し、
「然らば御免候へ」と奥の一間へ通りける。

牧女、左衛門を呼び、懐より短刀を出し、
「是、見候へ。
是こそ当家重代の守り刀天国(あまくに)の作なるべし。
是につき深き仔細のある事なり。先ず、是を山伏に渡し、母がか様に申すと伝へ候へ。

此の刀の儀に付き物語の候ゆえ、御留め申せしなり。しかし御身の害になる事にあらず。

委細は後にて聞き給ふべし。心安く御休息候ひて御疲れを補ひ給へと申さるべし」

左衛門此旨を通じければ、威妙院さてこそと思ひながら短刀を受け取り見れば、夕べ狼に取られし守り刀なりければ、様子を語らんと思へども、もしいかなる障りあらんもはかり難しと、委細承知仕ると、さあらぬ体にて懐中し、然らば少しの間休息御免下さるべし、と言ひて休みしは、天晴れ積徳の行者と見えし。

牧女、掃部親子へ物語の事附、諏訪明神霊験の事

時に牧女は寝所を起き出で、下女に湯をとらせ顔をよくよく洗ひ、白絹にて額を隠し、髪を繕い衣裳を着替へ、掃部を招きて、

「如何に方々、我を如何なる者と思ひ給ふぞ、此所に年経たる狼の変化なり。
かく申せば恐ろしと思し召さるるかなれども、このたび顕はるる上はくわしく物語り申すべし。

さても十七年以前、我二つの子を生みしが、一月も過ぎざるに此子狂い廻り、過ちて鹿の落し穴に落ち入りぬ。

我は穴ある事を知りたれども、二つの子故に心乱れ、助けん為に飛び入りしが、以ての外穴深く内狭くして身体を廻らす事なり難く、上には草木生い繁り、蓋を覆ひたる如くにて、子を助けん事は差置き、身を遁れん事なり難く日を送る内、食に渇し身体疲れ何ともなすべき様なく、穴の底にて飢え死なんと心定め居りたりしに、折節上に人音しける故、とても死なんずる命なれば人間の手に掛りて死なんものと、声をあげて啼きしに、此家の奥方慈悲の御心深く、我等親子の命を助け得さするぞとのたまひし御言葉、身に沁み渡りて有難く、死して再び生き帰りたる思ひをなし、如何にして救い給はるやらんと存ぜしに、御家来に言ひ付け、穴の口を切り開き、堀りさげ給はりし故、易々と二つの子を助け、我身も助かりしなり。

畜生なれども、慈悲のことばは耳に分かり、此大恩は千万生を経るとても報じ難しと思へども、畜生なれば言葉を通ずる事叶はずして月日を送る。

当家の作場を鹿猿の荒らさぬ様に守りしも、露ばかりにても恩を報ぜん為なり。

其後、綾女様御果てなされし時、沢右衛門と言ふ大悪人当家重代の太刀刀を盗み取り、我妹を後妻になさんと謀計を廻らし都へ上りしが、妹は国に帰らず人の見知り給はぬ事を幸い、外の女を妹牧女と偽りて連れ帰り、かの奸女と密通し男子を生む。

是、先達て相果てし金吾が事なり。
此子、沢右衛門が種なるを知り、当家を継がせんと悪念を起こし、深き巧みを廻らしつ、助治郎を毒害し、又、方々をも殺さんと思ひしが、助治郎が如く毒害せば人々に悟られん事を恐れ、人知れず左衛門殿を呪咀し、諏訪明神の神木に七夜の内に祈り釘を打つ事三十三本、われ彼を喰い殺し、綾女様への厚恩を報じ、毎夜付き添ひて窺えども、悪人ながら牧女は尊き守りを懐中せし故、側へ寄る事なり難く、とやせんと窺ふ所、牧女釘を打ち終り神拝をなさんとせしに、霊神の御罰にや俄かに宮中鳴動し、神風しきりに吹き社壇の扉響くぞと聞こえしが、神前に立ちたる牧女一声叫んで倒れ臥す。

其時、飛びかかって喰い殺し遁げ去らんとせし所に諏訪明神影の如くに顕はれ給ふ。

御姿は頭に霊蛇の冠を載き、身に金色の御衣を召し、

「汝、畜生なりといえども、報恩を思ふ一念、人間に勝りし念力神に通ずる故、我また和光の威徳を顕はし、汝が清浄の義心を憐み、神霊垂釈の奇特を授け思ひの侭に恩を報じ得さすべし。先達て掃部が忠臣、勝之助と言ふ者、高木重代の太刀刀、紛失せしを歎き、諸々方々を尋ねけれども、盗み取りたる者遠方へ持参せし故力及ばず、当社に願をかけ深夜に歩みを運ぶ事七夜に満てり。

しかれども、紛失せし頃より数日経たる故力及ばず、汝に託して太刀刀の行衛を示すといえども是を悟らず、日を送るところに掃部が後妻、悪念を起こし不義の我子を代りに立てん為、継子左衛門を殺さんと、当社に祷りをかけ、神木に釘を打つ事三十三本、神は非礼を受けずといえども奸女が悪念強ければ、左衛門が寿命半年を過ぐべからず、汝烈しき猛獣なりといえども、神通化現の術をなす事能はず、我汝が義念に感じて神変不思議の術を授けん」

と、一つの御封を我口の中へ投げ入れ給ふ。

有難くも尊く、慎んで呑み込しが、忽ち五体に沁み一心乱れて夢の如く思ひしが、重ねて告げ給ひけるは、

「掃部二品の宝の内、太刀は名作といえども中古の物なればその奇特薄し、守り刀は短刀といえども、表米親王より授かりし宝剱なれば最も大切なり。

取りかへさずんば掃部が孫世に出る事なり難し。
太刀は都三条にあり、刀は伯州汗入郡、威妙院と言ふ山伏の手にあり、時節を以って取りかへし掃部に渡せよ。
汝、神通変妖の術をなして恩を報じなば、其徳により後世は畜生の果を遁れ、遂には仏果菩提に至るべし」

と、神託を蒙りて、忽ち神影煙の如く消え失せ給ふと見えしが、我身の軽き事鳥の如く、又我れ男子の姿に現ぜんと思へば忽ち男子に変化し、女にならんと思へば忽ち女の形に現ず。

それ故にこそ悪人牧女が死骸を同類の狼に施し、変妖してかれが衣裳を身につけて斯く美はしき牧女となって来りしを、沢右衛門それとは知らず我に戯れ、其の上沢右衛門の命を縮めんとせし故、或夜喰ひ殺し、牧女が打ちたる祈釘を弟金吾に封じかへて左衛門の命を助け、種々に心を尽くしつつ今日まで月日を送りしなり。

此物語を山伏に話して守り刀を受取り給へ。

山伏の帰るまで我も当家へ止まり居ん。

顕はれし上は暫くも此家に止まり難し。とくとく」と言ひ捨て、一間の内へ入るとぞ見えしが、姿は消えて見えずなりける。

掃部、威妙院より守り刀を受取る事

掃部親子は此物語を聞き、思ひもよらぬ珍事なれば、余りの不思議に何と言ひ出すことばもなく、親子顔を見合わせつつあきれ果てて居たりける。

掃部、左衛門に向ひ、
「是につき思ひ当る事あり。我先年牧女と一所に綾女が墓所へ参り、其帰り真禅法印の庵に尋ね行き、仏法の要文を聞きしに、其時、我は先に座を立ち帰らんとす。

牧女は十念を授からんと言ひて少し後れし故、後へ立ち戻り様子を見れば、法印数珠を牧女が額に押し当て両眼を閉じて
<狼形善女発菩提心>と唱へ給ひしを、我何心も気付かず、かかる仏語もあるやと思ひ、打ちつれて帰りしが、今思ひ合はすれば、大徳の眼力には狼の姿に見えしならん。

牧女が貞節の忠義に依て、紛失せし重代の守り刀再び手に入る事祝悦是に過ぎず。
牧女は何所に居るぞ」

と、呼びけれども見えず。左衛門は座を立ち、

「如何にして隠れ給ふぞ、訳はともあれわが為には大恩を受けし命の親の母上なり。情なし」

とて、尋ねけれども、姿見えざれば、此所彼所を見廻りて時を移すも理なり。
掃部声をあげ
「たとへいかなる訳にもせよ、か程親子が尋ぬるに如何なればまみえ候はぬぞ」と言ひければ、其時空に声ありて、

「何とてか様に迷ひ給ふぞ、顕はれぬ先はともあれ、斯く顕はれぬれば、早々我ことばに任せ守り刀を取りかへされよ。
御手に入りしを見届けし上、山伏帰らば其後にて暫し姿を顕はすべし。

先ずそれまでは形顕はさん事なり難し。急ぎ給へや方々」
と言ふ、声は聞ゆれども影も形も見えばこそ、夢かと思ふばかりなり。

さらば言葉に任せんと山伏の居間に行きしが、威妙院は夜前の疲れにくたびれたれども、様子は如何と訝しくまどろみもせず座したりける。

親子は対面して始終の様子を逐一語りければ、威妙院はたと手を打ち、

「さては稀代の不思議かな。此議に付いて我が方にも思ひ当る物語の候、聞き給へ。
われ十二年前、官位の為に上京せしが、亀山の宿にて当国の侍なりとて宗近の太刀と天国の短刀を所持せしをはからずも拝見し、剣徳の勝れし謂など語りければ、彼の侍我を頼み世話致し呉れ候へと、ひたすら頼み候故、かかる事とは露知らず、太刀は三条の商人へ三百三十貫にて売払はせ、刀は五十貫にて拙者申受け候なり。

されば其後此守り刀を懐中し、日本六十余州いかなる霊山の魔所といえども我が登らざる霊地なし。
されども名刀の奇特にや、積徳の行者も恐るる魔所にても、物のしょうげを受けし事なし。

然るに此度、丹後河守大神宮へ参詣せんと此所を通りしに、思ひもよらぬ夜前の狼難にて命危く思ひし故、わが行力も剣の威徳もすたれしならんと思ひしに、さてはかかる訳ありて守り刀を奪れし不思議の思ひ晴れたるなり。

昔より、霊蛇旧狐の変化して人間に通ぜし事、和漢の文書に見聞せしが、狼の変妖未だ例を聞かず。

是、畜類といえども、報恩の一念を起こし、霊神の通力を授り当家へ忠義を尽せし者なり。

誠に片々幸福なり。
か程奇特の剣と言ひ、当家重代の宝なるを拙者所持して何かせん。御譲り申さん、受取り給へ」

と、懐より取り出し掃部の前に差出しける。

左衛門側にありて、
「貴客の御懇志甚だ以て満足せり。併し、五十貫にて求められし刀なれば此価を渡し、其上請取り候はん」

威妙院、「否とよ、かかる稀代の不思議と言ひ、又彼の者当家より盗み取りたる刀なれば価を受くるの道理なし。
其上、我此名刀の徳により、魔所も霊地も残りなく順拝し終りし事なれば、此上所持は無用なり。

この事、報恩貞志の狼婦へ語り、心を慰め給ふべし。我またかかる不思議を見たるも行者の面目なり。
早々御受取り下さるべし」

と勧めければ、掃部大きに悦び、貴客の御親切、狼婦へ語り安堵させ申さんと、かの守り刀を受取り押し戴きて威妙院をもてなし、切金五十貫を取り出し、

「是は刀の価にあらず、貴客へ寸志の御礼なり」
と、差出しければ、
「いや、かかる御礼を受くるの筋なし」と言ふ。

掃部親子強いて勧めければ、然らばとて其内四、五貫文分を受納し、

「是は方々の無事開運を祷らんが為に志を受納申す也。此上余分を勧め給はば一銭も受け申すまじ。
又、この度の怪変神仏に誓ひ、わが口外へは出し申すまじく、此旨御内室へ伝へてたべ。早御暇申すべし」と立ち出づる。

掃部暫らく止めけれども、
「われ暫しも逗留せば却って人に怪まれん。行先を急ぐ身なり」とて、止まる気色見えざれば、里の端まで送りつつ立ち別れてぞ帰りける。

牧女暇乞いの事付、親子名残を惜しみ歎きの事

かくて親子の人々は威妙院を見送り、私宅へ帰り刀を携へ、牧女の隠れし一間へ行きて見れば、牧女は今朝見し姿を顕はし、萎れ果てたる有様にて常の如くに座し居りたり。

親子は大きに悦び、右と左に座しながら疵の痛みを尋ねける。
牧女顔をあげ、
「うれしくも問はせ給はるものかな。守刀こそ御手に入り候ひつらん」

其時左衛門、山伏の次第つぶさに物語り、守刀を示しければ悦ばしげに打ち笑み、「此上は心にかかる事更になし。」

「山伏の持ちたる刀我が通力にて取り得んにかく深手を受くるにはあらねども、一方ならぬ行者と言ひ剣の威徳勝ちし故、はからず疵を蒙りしなり。

されば我指図に依って多くの狼集りたれども、積徳の勝れし山伏なれば行徳に恐れ、取り得ん事かなはず、我を呼びてしきりに啼く声、人間に通ずる筈はなけれども、行力の深き威妙院なれば、彼が耳へ<カモンカモン>と聞こえしならん。

最早かく顕はれし上は暫くも人間に交り居る事かなはねば、唯今此家を出で去るべし。
御暇候はんといえども是まで左衛門殿の孝心忘れ難く、別れん事の悲しさよ。

又、娘民女はかくとも知らず、我なくなりし後にて慕ひ難からん事の不憫さよ。

悪人牧女が生みし子とは言ひながら、金吾こそ沢右衛門が種なれども、民女は正しく君の種なれば、是まで愛しみ育てしなり。
兎にも角にも方々へ名残こそ惜しけれ」

と、泪に咽び語りける。

掃部、牧女の膝元へすりより、
「いかなればかかる情なき事を申すぞ。伝へ聞く昔人神四代の主彦炎出見の尊、竜身の化神豊玉姫を娶り、ウガヤフキアエズノ尊を生み給ふ。

又、近くは北條四郎時正芸州厳島の社再建の時、平相国清盛の指図を受け普請奉行たりしが、信仰深かりしかば、御宮建神慮に叶ひけるにや、ある時弁財天女美女に化して時正に仕へ、政子と言ふ姫を生み給ふ。

此姫後には日本武将の元祖、征夷大将軍、源頼朝卿の御台所となり、後尼将軍と言ひしは是なり。

政子の母上姿を隠し給ふ。御形見とて霊蛇の鱗三枚を残して去り給ふ。
それより北條家立羽の蝶の紋所を改め、三つ鱗に替へしは此の謂なり。
其外、霊獣の化身して人間に変はりし事、和漢とも其ためし多し。
然るに其方先妻綾女に受けし恩を報ぜんが為、是なる左衛門が命を助け、其上当家重代の宝剣を取り返へし、我等親子が仇となる悪人沢右衛門、牧女をとりて貞心忠義を顕はせし事、人間の及ばざる所なり。

されば身は狼の変妖なりと雖も、魂は人間に勝れり。
はからずも此度顕はるるとも、我等親子、威妙院、此三人の外知る者なし。

また威妙院は此度不思議の狼婦の貞忠感ずるに堪へたり。堅く神仏に誓を立て口外へ出すまじ、此旨其方へ伝へよと語り申し置きし上は、外に洩れんことあるべからず。

されば是までの通り当家に留まり、我等が命ある内は必ず家を出で給ふな。」

牧女これを聞き、
「斯く忌はしき我を恐れ給はず、事をわけて留め下さる御志、有難くもうれしく思ひ候へ共、顕はれぬまでこそ人間に交はれ、顕はれし後は人間に交はる事これ叶はぬは、死せる人の再びまみえぬが如し。

是は人々の知り給ふにあらず。されば先年真禅法印に戒を受けし時、君物陰より見給ひしに、法印<狼形婦女発菩提心>と唱へ給ひし時、此心を悟り給ひなば、其時身を隠さんと思ひけれ共君是を悟り給はぬ故、是まで斯て候なり。

われ神通にて本体を変妖すと雖も、法印仏徳の目には狼と見られしなり。然れどもたとへまこと人間にても身の業因によりて、大徳の目には畜生と見ゆる事もあるなれば、是は凡夫の知らざる事なりと思ひ止まり申せしなり。

豊玉姫の事を仰せられ候へ共、是も御産の時我産屋に来給ふなとありしを、尊産屋を覗き見給ひしに大蛇の形を顕はし給ひしを見られ給ひし故に、再び尊にまみえ給はず竜宮へ遁げ去り給ふ。

又時正も始の程は知れざりしに、政子と言ふ姫を生み給ふにつき、母上の素性を厳しく尋ね申さるる故、是非なく形見に三枚の鱗を残し姿を隠し給ふ。かかる貴き竜神だに本体顕はれし上は、人間に交り居る事なり難し。

其外霊獣の人に変妖せし事ありと雖も、顕はれし後止まりし事なし。
まして賤しき狼の類、人に近よる事ならざれ共、諏訪明神の霊徳を蒙り、神通に化現の術を授かりし故、後妻牧女と姿を現はし是まで御身に近よりし」
と語りければ、左衛門泪を流し、
「如何に母上、人間に生を得たる者にても畜生に劣る類ひの者世に多し。たとへ姿は狼と変し給ふとも、母上の如くなる貞女は世に類ひなし。
されば父の申さるる如く、此事我等親子、威妙院より外知る者なし。
御身は狼に変じ給ふとも、我は大恩を蒙り命を助けられし母なれば、何卒家を出で去らず如何なる場所にか隠れ止まり、我に報恩の孝を尽させ給へ。
せめて父上の一生は、此家を去り給はず留まりてたべ」

と、母の袖にすがりて頼みける。
誠に是までの掃部への貞心、左衛門への愛敬、人の及ばぬ親切なれば、別れに臨みて名残を惜しむもことわりなり。

牧女流るる泪を止めかね、
「聞き給へや左衛門殿、今も申す如く我は何程留まりたく思ふとも、叶はぬ事は是非もなし。さらば我形見に狼の木像を造り給へ。我魂其像へ移り留まらん。
それを母と思ひ給はば土蔵の中へ安置し、折々香花を供へてたべ。
わが霊魂は仏果を得て都卒天に生まるるとも、忠義に凝ったる念力は通力自在の狼王となり、かの木像へ留まりて、末世に奇特を顕はすべし。

是をわが形見と思ひ給へ。われ不思議の縁にて、先妻綾女様より受けたる恩を報じんと思ふ一念深く神に通じ、霊神の威徳を蒙りて人間に交はり、先奥方の後を追ひ、貴き聖戒を受け仏道に入りし事、畜生の身にとりては盲亀の浮木に逢ひしが如く、憂雲萃を得たるに等しき悦びなり。

有難や、今日畜生の形を改め捨てん。わが真の姿は、この縁の下へ隠し置くべし。
明日尋ね見給ふべし。
人の目にかからぬ様に、いづくなりとも埋めてたべ。是までなり。」
と言ひ捨て立ち出でんとするを掃部親子左右の袖に取りつき、先ず暫くと引き留むれば、不思議や衣裳は其侭に、身は忽ちに消え失せて影も形もなかりける。

不思議と言ふも愚なり。

掃部、左衛門に向ひ、「最早歎く事なかれ。か程に留めてもよくよくの事なればこそ、形を隠し候ひしぞ。此上は言ひ置きしことばに随ひ、狼の像を造り追善をなさんこそ報恩孝行なるべし。

脱け出でし衣服を其侭、帳台の床に直し置き、翌日、人知れず親子縁の下をよく見れば、其様大きなる女狼の姿眉間に刀疵のつきたるが死して伏したりける。

ひそかに内へ隠し入れ、俄に棺を造り、牧女病死の由披露し、葬式叮寧に取り行ひ、先妻の塚に並べて葬りける。

此事外に知る人なしと雖も、世の言葉にかかりしは、天人口を以て言はしむるなるべし。

左衛門狼の木像を造り供養の事付、掃部卒去の事

然るに左衛門母の遺言時日を移すべからずと、ひそかに池田勝五郎へ此度の怪事の始終を委細に残る所なく物語りありければ、勝五郎つぶさに聞きて大きに驚き、或いは悲しみ、或いは悦び、

「我等始め諸人の知らざりし父が仇なる牧女、沢右衛門を殺し、君御親子の命を助け、重大の宝剣まで取りかへされし大恩、我また是を報ぜずんばあらじ。何卒早く狼の像を造り、ひそかに追善をなし参らせん。
併し近辺にて像を造らば人の怪しまん事如何なり。
我夜を日についで都に登り、よき作者へ造らせ申さん」と、
それより発足し、日数を待たず、狼の像を白木の箱へ入れて帰りけるが、人の見んことを傷みて土蔵の内へ安置し、供物を供へて日夜いますが如く祭りける。

掃部は度々の憂ひに逢ひ、その上化身の牧女なくなりしより心淋しく、家にありし面影忘るる事なく月日を送りしが、文正元年丙戌三月卒去せり。

歳六十二才、今に至りても宿南城山の麓に掃部屋敷ならびに墓跡あり。されば左衛門、勝五郎へ申されけるは、

「我先年継母の悪女が為に命をとられんとせしを、狼悪女の継母をとり、其姿に変妖して当家に来り、父に貞実を尽くし、我等愛せられし事実母たりとも中々及び難き深切なり。

其上伝来の守り刀をとり返さんと心を尽くし、終に顕はれ果てられし事、我が身を果つるとも此大恩を報ぜずんばあるべからず。さればわが母の霊魂の移り留まりし狼像を負ひ、諸国の霊仏社へ順拝せば、仏果菩提の増上縁なるべし。
是わが報恩なり。汝はこの家に留まり、我に替りて家を納めよ。
順拝終らば再びここに帰らん。
若し六年の年暦を過ぎて帰らずんば、其の時民女に養子をして後を継がせよ。是わが存念なり。」

勝五郎、「御尤もの思し召しなり。我つくづく思ふに、主従なる武道を心得し身を持ちながら、斯く浅ましき山林へ住し、空しく埋もれ木となって一生を過ごさん事、口惜しき次第なり。

是より主従諸国を廻り霊場へ順拝せば、互に父母への追善とならん。
二つには、諸国乱れし時節なれば、名将を尋ね縁を求めて仕へなば、再び武家へ立ち戻らん。

拙者深き所存ある故、片山平助、次いでは叔父・池田彦太夫、是まで度々宿南殿へ勤仕を進め申されしかど、小身の右京殿へ仕へん事をせず、時節を待ちて主人を守り立て高木の家を興さん、是わが存念なれば、願ふ所のお供なり。

後は弟の新七に任せ民女を預け置き、又先祖方へ追善には、光明寺へ日牌のしどう金をあげ置き給へ。
斯く重き狼像なれば、主従代る代る負ひ申さん」と言ふ。

左衛門、大きに悦び、是わが心に叶へり。さらば月日を移さず思ひ立つべしと、光明寺へ日牌料ならびに末代までの供養料として、青銅二百貫文の切金を納め置き、家は勝五郎が弟、新七へ任せ、俄に笈を調へ像を収め、主従是を守護して住み馴れし宿南の里を発足せんとす。

其夜は主従とも狼像を祭り、よもすがら法華経を読誦し、深更に及んで臥したりしが、左衛門の夢に牧女菩薩の姿に変じて枕元に顕はれ、
「孝子左衛門、我に報恩の為狼像を守護し、諸国の霊場へ順拝せんと欲す。
其志の功徳広大にして感喜するに堪へたれども、我真魂は天に止まり、念力は分身自在の狼王となって此木像に留まる。

されば、末代までこの国に在りて、五穀を荒らす獣の害を防がん。
当郡の内霊神の宮寺あらば、我姿を安置せよ。
又、汝等主従は天国の守剣を身につけ、是より関東へ趣き、相州へ留まりなば一度は武門に秀で、繁栄子孫に及ばん。

狼像は当国に止まるとも、神魂は汝等主従の身に付き添ひ、開運立身を守らん。必ずわが報に背く事なかれ」と、告げ姿は天に飛び去りける。

左衛門、夢さめて勝五郎を起こし、
「われ不思議の霊夢を蒙りたり、早く起き候へ」と言ふ。

勝五郎、「拙者も夢を蒙り候、先づ、我が夢の告げを語り申さん。聞き給へ」
と、物語りせしが、左衛門が見し夢に少しも違はず。
左衛門、はたと手を打ち、
「さては其方が霊夢わが見し夢に少しも違ふ事なければ、是に過ぎたる不思議なし。この上は霊夢の告げに随はん」

と、さる宮寺に収め、しどう料に青銅百五十貫切金を納め、住職の僧へ堅く口留めし、「この事一生の間は世上に流布し給ふな。狼像は末代に奇特あるべし。大切に供養してたび給へ」

住僧、委細を承知し、像を受取り、先づ宝蔵へ安置し、この事我口外出すまじき由を語り、誓約をなし、ひそかに信仰せられける。
然る間、五穀の害を防ぐ守りには分身の小石を授け、害を遁れし後にては元へ返し納め、又生身の狼にても願へば来たって害を防ぎ、守るとかや。

誠に不思議の奇特なり。
是を考ふるに、今の養父(やぶ)の狼の神社ならん。

それより左衛門主従は相模の国へ立ち越え、北条早雲氏茂へ仕へ、武名を顕はし、日下部淡路守信勝を名乗り、相州陶綾郡(ゆるぎのこほりにて数ヶ所の領主となり、勝五郎は池田兵部と改名し、淡路守の家老となりて、数代長久なりしなり。

今、河州丹南の領主高木主水正(もんどのかみ)といふは、かの家筋ならんと言ふ。又、宿南掃部の後は、勝五郎が弟・新七、左衛門の譲りを請け、掃部の乙娘・民女へわが子をめあわせて主名を継ぎ、掃部と名乗らせ相続せしが、霊意に叶はざりしか、後に領主へ罪せらるる事ありて、一度宿南の地を立ち退きしが、又立ち帰りて今にその子孫ありとかや。

後世の人、彼は狼の筋故、眼光鋭しなど言ふ説ありといえども、狼変妖して掃部の家に在りしはわずかに三年。
顕はれて失せし時娘は五才なり。此外に子無し、何ぞ狼の子にあらんや。

委細の謂れを知らずして言ひ伝えし。

助次郎が娘、国女、観音信仰の事付、妙蓮尼奇瑞の事

ここに池田新七が妹に国と言へる女あり。
生まれつき片足が屈まって自由ならず。人並みに歩行なり難きが故、縁付きならず、兄新七が世話となりて在りしが、草の庵を結び身を隠して居りたりける。

法名を付けず俗尼なれども、一寸八歩の観音の霊像を持てり。
この観音は黄金仏にて、先年沢右衛門、己が妹と偽り都よりつれ帰り掃部の後妻にせし悪人牧女が守り袋に入れたる尊像なり。

その頃沢右衛門と心を合わせ、継子の左衛門を呪詛し神木に祈釘を打ちし時、狼これを喰い殺さんと付き回りうかがえども霊像を懐中せる故、側へよる事ならざりしに、観音も悪人をば捨てさせ給ふにや、狼諏訪明神の神力を借り、終に悪女を取りしなり。

お国は助次郎が娘にて勝五郎、新七が妹なるがゆえ、狼の化身の牧女深くいたはり子が如く愛せし為、実の母より大切に仕へしが、牧女お国へかの守り袋に入れし尊像を譲り、

「其方は人並みならぬ身なれば縁づくことならず、一生わが側へ居て我に仕へよ。
我もし世を去らば、この観音廉略にならぬ様、汝是を念じ、深く信仰せば御利生あるべし。必ず粗末にすべからず。」と、国女に譲りける。

国女悦び守り袋を仏壇に祭り常々是を信仰せり。
その後、牧女の変身顕はれ失せたりし時、世間には頓死なりと披露し、葬式とり行ひしを、お国まことと思ひ、深く歎き悲しみ、親に離れし如く臥し沈みしが、この時尼となり、牧女の譲りし尊像を主人の形見なりと身を離さず、紫の庵にとぢ篭り、牧女追善を惰らずして年月を送りしが、霊仏の御利生にや、後には屈みし足自然と延び、歩行人並みにまりしは此観音の仏力なり。

それより諸人此霊像を尊敬し、思ひ思ひの願をかけけるに、霊験の御利生速やかなりければ、何となく施物集り、終に観音の小堂を建立しわが身是を守護して日を送る。

宿南重郎左衛門輝直兄弟、羽柴美濃守と合戦の事付 宿南落城の事

それより年暦、はるかにへだたり天正五年丁丑の夏こそ、時、人皇百七代正親町院の御宇、当国の太守・山名右衛門督昭豊の代に当って山名大いに衰ふ。この時、宿南の城主は八木右京より四代の孫、宿南修理太夫輝俊なり。

時に播州姫路の城主・羽柴筑前守秀吉、当国に攻め来り、朝来郡竹田の城主・太田垣左衛門太夫宗勝、合戦すといえども、羽柴の猛勢防ぎがたく、たちまち落城におよぶ。

宗勝行方しれず落ち失せり。(その時、この城、赤松左平衛督則貞しばらく在城)

八木但馬守豊信、一戦にもおよばず因州へ出奔す。これより羽柴二手に分る。筑前守は近国の一揆蜂起する由、注進ある故、当国を捨て置き播州へ引き返し、当国は舎弟・美濃守秀長(はじめは羽柴小市郎と云ふ。後に大和大納言と云ひしなり)養父、出石、気多、美含(みぐみ)城崎を攻むべき由を命じ、朝来、七味(ひつみ)、二方をば藤堂與右衛門高虎に命ぜらる。

かくて美濃守、気多郡へ攻め来る由聞こへければ、垣屋駿河守広重、同じく平三広則、美含郡轟の城を出で西村丹後守が居城・気多郡水上の城に立てこもり、林甫の城主・長越前守、上ノ郷に赤木丹後守、伊福に下津屋伯耆守、国分寺に大坪又四郎、宮井に篠部伊賀守、宿南に修理太夫、浅間に佐々木近江守義高、八木に藤井左京、上山に上山平左衛門、坂本に橋本兵庫、朝倉に朝倉大炊、その他、諸士会議す。

これ皆、山名の家臣にして、ありは一荘あるいは二荘、一村二村その当り行はるる所を領し、山上に屋敷を構え、または平地役所建て軍役を勤む。

これらの名々評議して曰く。

今、山名家衰へたりといえども二百余年当国の太守たり。
たとへ羽柴大軍にて攻めよせたりとも、なんぞ手をむなしくして国を渡さんや。各々、一命を果たし恩を報ずるの時至れりと、互いに約を定め合戦を今や今やと待ちいたり。

この時、天正五年、羽柴美濃守、大軍にて早や小田野まで攻め来る。宿南修理太夫輝俊、近辺の小城主を語らい伊佐野の西に出向かふ。

折節、修理太夫にわかに病気発起して出陣難儀なりければ、嫡子・重郎左衛門輝直は舎弟・馬之助直政、家臣大嶋勧解由、池田蔵人、片山五郎左衛門、池口勘兵衛、近郷の小名には朝倉大炊、大坪又四郎、三方左馬之助、赤木丹後守、その勢五百余騎伊佐野の西へ出で向ふ。

川の東なる伊佐野には、佐々木近江守、橋本兵庫、同じく権之助、二百余騎、川原表に出向ふ。

羽柴の勢、二千余騎、ときの声をあげて打ってかかる。
川東の味方、河原表に立ち並んで弓鉄砲を放つ事雨の如く、川西の味方は我城近くへ敵を寄せじと火花を散らして攻め戦ふ。

しかれども、羽柴大軍なれば、射れども撃てどもものともせず新手を入れ替へ、山の崩るるが如く打ってかかる。

味方の先手防ぎかねて見へければ、宿南重郎左衛門、舎弟馬之助家臣大嶋勧解由、池田、池口、片山などいへる血気の勇士二十四人、馬の頭を立て直し、太刀を真っ向に差しかざし必死と極め切り入りければ、これに続いて朝倉大炊、大坪又四郎、三方左馬之助、赤木丹後守、二百余人、血煙を立てて攻め戦ふ。

中にも宿南重郎左衛門輝直、今年二十七歳、身長六尺余、力量人に優れし豪傑なりしが、敵陣に馬を乗り入れ、大音声にて呼ばはりけるは「表米親王の末葉、宿南修理太夫輝俊が嫡子重郎左衛門輝直なり。羽柴小市郎はいづくにある。出であいて我太刀先を試み給へ。」と云ふ。

ままに、雷の落つるが如く敵陣に切入り、七縦八横当るを幸ひ切って落とす。その勢ひ項羽が彭城の戦に漢の大軍を切り散らせしもかくやと見へておびただし。

されどもその身金石にあらざれば、数ヶ所の手傷を負ひ、鎧に立つ矢は蓑の如く、流るる血は滝の如しといえども、輝直少しも屈せず味方を下知して防ぎ戦ふ。

敵味方のおめき叫ぶ声山河に響き渡って凄まじく、暫時が程は入り乱れて戦ひしが、大勢に取り巻かれ赤木丹後守、大坪又四郎始め、味方多くは討死す。

秀長勢、兵を二つに分け、一手の兵は川を真一文字に渡って撃ってかかる。伊佐野に控へたる義高が勢、暫く支へ戦ひしが、忽ちに敗北し、己が居城をさして逃げ篭り、城門を閉じて出会はず、川西の味方も大半討たれければ、重郎左衛門兄弟、朝倉大炊五十騎ばかりにて撃ちなされ、宿南の下なる浅倉の嶮路を小楯にとり、敵寄せ来たらば下なる深淵に追ひ落さんと伏兵を構へて控へたり。

宿南修理太夫 光明寺に於て自害の事付、山名の滅亡に付 当国の小城主開退く事

宿南の城主修理太夫輝俊は、折節病気にて城に引き篭り、二人の子を戦場に向はせ、幼少の子供を連れて城中に在りしが、味方敗北して村下なる岩山の麓へ控へし由注進しければ歯がみをなして起きあがり、

「口惜しき次第かな。かかる苦戦に出合ひ空しくなりゆかん事の恨めしさよ」と、

病気ながら甲冑を帯し、弓矢を携へけれども、歩行叶はざれば、少々残り止まりたる家来に下知し防がんとしけれども、乱れ入る事火急にしてときの声間近く聞こえれば、館に火をかけ城の麓なる光明寺へ馳せ行き、幼少の男子二人を家来に渡し、

「汝これを連れて何方かへ身を隠せよ。戦場へ向ひし二人の兄は定めし討死せしならん。早とくとく」

とありければ、近臣片山五郎左衛門が父兵右衛門、老体なれども武勇優れし者なれば、豊若十一歳、国若八歳なるを左右に脇挟み、光明寺の後なる山を越えて奥深谷と言ふ里へ隠れしとかや。

輝俊は鎧を脱ぎ捨て、本堂へ坐し、本尊に向ひ仏名を唱へ、腹かき切って果てられける。

これに続いて自害せし男女二十余人とぞ聞こえける。

さて重郎左衛門兄弟は、かくとも知らず敵の追ひ来るを待ち、一計策を行はんと伏兵を隠し待ちたりしが、はや我が館へ火をかけたれば、さては落城せり。

父の身の上心もとなく、舎弟直政に謀を示し置き、朱に染みたる馬を引き寄せ、城をさしてただ一騎乗り帰さんとせしが、家来馳せ来って
「御父君始め、皆々様、館を立ち出で、光明時にて御自害あり。寺にも火をかけ候」と云ふ。

早一片の煙と立ちのぼりければ力なし。
されども、敵定めて此所へ追ひ来らずと言ふ事あらじと、静まり切って居たりしが、敵は此所へ寄せ来らず川東へ引きとりければ、謀策案に相違す。

「最早これまでなり。父に追ひ付き申さん」と兄弟山林に馳せ登り、腹かき切って死したりける。

五十騎ばかりの味方は、残兵を集め、水上の城へ立て篭もる。輝直兄弟に付添ひたる片山五郎左衛門、大嶋勧解由、そのほか討ちもらされし譜代の郎党、兄弟の死骸を隠し、山を伝ひて光明寺へ馳せ行き見れば、早ことごとく焼け落ち、灰塵となって
尋ぬべき人もなければ、詮方なく生害して失せたりける。

表米親王九百十五年天正五丁丑の年、宿南落城す。

この時、寺社も断滅せり。浅ましかりし次第なり。

片山兵右衛門は二人の幼君を助け、山中に隠れ住みしが、後に民家に降りて宿南の里に留り、今にその子孫ありとかや。

それより羽柴美濃守は浅間の城を捨て置き、出石郡に押し寄せ、子有山の城を囲む。

大主・山名右衛門督脇豊、城郭を堅め立て篭もり、出て戦はず、所々の要害に立て篭りたる味方、隙を伺ひ折々夜討ちをなし、羽柴勢の兵糧を奪ひとる。

羽柴、数度戦ふといえども、当国の武士、案内詳しければ、たやすく子有山を攻め落し難く、日を送る内、所々の小城主一度に起こり、四方より攻め寄せ、城の後詰せしかば、美濃守散々に敗北し、軍勢を集め米地山(めいじやま)を越え、播州へ引き退く。

藤堂高虎は七味郡村岡を乗取り、此地に立て篭り、合戦数度に及ぶ。七味、二方の味方は、田公美濃守が家臣・小代大膳、杤谷の小城主・塩谷左衛門助、上月悪四郎、冨安源内兵衛、数百騎小代谷へ立て篭り、要害を構へて防ぎ戦ふ。

或る時、高虎手勢を引き具し小代を囲む。七味勢この由を聞き、所々に手分けをなし、山林に埋伏す。
高虎これを悟らず、小代をさして攻め寄せしを諸方の伏兵一度に起こり、藤堂勢を包み、短兵急に攻め戦ふ。

高虎、名を得し勇士なれば少しも動ぜず、諸軍を下知して一方を切破り、囲みを出でんとせし所に、小代谷より塩谷左衛門、上月悪四郎、小代大膳、冨安源内兵衛など萬歩不当の者ども五十余人切入れば、藤堂高虎散々に敗北し、一騎がけにて大屋谷へ遁げ来り、加保村在住の郷士・栃尾加賀守ならびに子息・源左衛門を頼み隠れ居て、密かに味方の残兵を集む。

この由を隣村・瓜原村の長尾瓜原新左衛門、小代に注進す。

これによって小代の勢、横行山に立て篭り戦ふ事度々なり。
然るに天正八年羽柴筑前守秀吉、再び大軍を引率し、西播磨より明延山を越えて当国へ攻め入る。

この時小代の味方、残らず滅亡せり。

それより秀吉、上小田村に憩ひ、所の町民・斎藤谷左衛門が家に宿し、気多郡水上城を攻むる由聞こえければ、味方ひそかに谷左衛門に通じ、秀吉を欺かしめて討つべき謀を示しけるが、羽柴の威勢に恐れ同意せず。

是によって垣屋の諸士会議しけるは、先立て美濃守秀長、宿南の城を落とせし時、浅倉の嶮路におびき寄せ討ちとらんと謀りしに、佐々木義高、橋本兵庫一戦にも及ばずして各々が城に立て篭りし故、敵かの地へ来らず出石へ攻入り、気多両郡にて合戦数度に及ぶといえども、子有山の要害堅固にて攻め落とす事叶はず、宮内台の合戦に敗北し、散々になって本国へ引き退く。

然るによって秀吉大軍にて攻め来る。

味方これまで数度の軍に疲れたる困兵を以って、大軍、羽柴が勝ち誇りたる数万の猛勢に当らん事、千にも勝利あるべからず。
その上、七味郡小代の味方も残らず滅亡せしと聞こゆ。
この上は味方偽りの謀を以って秀吉を欺き討つべし。

筑前守、水上の城を攻めんに、是非宿南より岩中へ通るべし。
先規も内々はかりし如く、宿南と岩中の間なる岨道こそ屈強の地なり。上に巌窟にして下は深淵なり。

かの山に兵埋伏し城中の諸士、城を明け宿南の野に出で、降を乞ひ水の上の(水生)城に案内せば、秀吉かの岨道を通行せん。

その時、伏兵一時におこり、用意せし大石を霰の降るが如く転ばし、軍兵前後より挟んでこれを討たば、秀吉を滅ぼさん事、案内なるべしと、ひそかにその術をなしけるが、秀吉は智謀凡人の及び難き名士なれば、かねて所々に忍びの間者を遣はし置ける故、既に宿南野にまでおもむきし時、この謀を聞き、俄かに東に廻り伊佐野に趣く。

この時浅間の小城主・佐々木義高、武具を改め、礼服にて出迎へ、地に平伏して降を乞ふ。

これより近江守を案内者として子有山の城を攻め落とし、狭間坂を越えて水の上の城(水生城)を攻む。

城中には謀、すでに相違しぬ。山名昭豊は子有山を落ちて、因州へ退去せしと聞こへければ戦ふに力なく、軍将垣屋駿河守を始め、諸士皆討死す。

駿河守の子息二人ありしが、兄弟一方を切り抜け丹波の方へ出奔す。
その後嫡子は紀州へ仕へ、次男は脇坂へ勤仕せり。

山名中興の宗、宮内大輔源時熈(みなもとのときてる)、明徳の頃、但馬の国牧に配せられしよりここに至て七世、その間二百二十余年、天正八年、右衛門督昭に至て勢ひ衰へ国滅ぶ。

さても宿南に蟄居して義心を立てし田垣信豊の子孫は一度民家へ降るといえども、末世に子孫、武門に出で、災難却って幸福となりしは、父祖の善悪は子孫に報ふと言う言葉(ことのは)、実(まこと)なりけるかな。

掃部狼婦物語 下巻 大尾

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