かもんかか物語(上巻)

それ光陰の移り行くこと、流水の如く、終れる期をしる者なしといへども、人命、限りありて百歳の齢、世に稀なり。

六十路の夢、長しと思へとも、日を以て数ふれば二万二千日に足らず。
生涯の間、貴賎貧福の楽みも盧生が一睡の夢に等し。
只生々世々も消滅せずして、付き添ふものは生涯に造りなす善悪の業なりとかや。しかのみならず、子孫にまで諸悪莫作、衆善奉行の金言実(まこと)なるかな。

ここに、文安、宝徳の頃、但馬国養父郡宿南(しゅくなみ)の里に、高木掃部といふ人あり。
彼の室、ある時狼を救ひ助けし事あり。
その狼、後に深く恩を報じし物語、伝え聞き侍りぬ。されば今の代までも、宿南掃部狼の妖(ばけ)しとて、人を食らひしなど、小児を嚇す言葉に言ひ伝ふといへども、その詞区々(まちまち)にして、実説を聞かざりしに、或る老翁、わが先祖は高木の家に因縁ありて、秘せし文の次第微細に聞及ぶといへども、我れ元来無筆にて、書きとどめん事叶はず、後世に至りて、実説乱れなんことの哀しさよと言ひし故、かの老翁の物語り筆にまかせて書き留めしは、末世の男、賎の女など、小児をたらす欠伸(あくび)の伽ともならんと、拙き筆を染め、假字書きに怪賎の文をあらはし綴りて掃部狼婦物語と名づく。

見ん人嘲笑したまはん事を恥づるのみ。
このいはれ大概書き記せし旧文の雑書ありといへども、紙中破損して詳らかならざるに付、再写しおへぬ。

田垣掃部素姓のこと附 宿南氏の事

ここに当国養父郡(やぶぐん)宿南の里に田垣掃部といふ隠士のごとくなる百姓あり。その先祖を尋ぬるに、表米親王の苗裔朝倉余三大夫宗高が末流也。余三大夫が末孫朝倉右衛之門亮広景が舎弟に掃部之助信季とて武勇勝れし者あり。

延元の頃、兄・右衛門之亮広景は足利尾張守高経に属せり。舎弟掃部之助信季は新田義貞の舎弟脇屋刑部大夫義助に属し、延元歴応の乱、二度の軍功を顕はし、瓜生篠塚に肩をならべし勇士也。

義貞の討死の後、歴応三年四月、脇屋刑部郷義助官軍催促の為、四国へ渡り給ひしが、同五月俄に病死果て給ふ。
その時、鞆(とも)の合戦に信季討死す。子息・左衛門信豊、万死を逃れ、越後へ帰り、義助の長子・右衛門督義治を助け、観応三年閏(うるう)二月、武蔵野合戦の時、手柄を顕す。

その後、南朝、大いに衰へ、新田の人々も武蔵・上野・信濃の間、在所定まらず。所々に漂泊し給ふ故、信豊も後には一身を置くべき所なく、但馬に下り、養父郡宿南の里へ身を隠せり。

さて、また宿南の里に存在せる小名あり。宿南常陸之助光政といふ。康永の頃、館を山の峯に移す。後の屋敷を館と云ひ伝へ、今にその名あり。これ日下部の苗裔なり。その子・修理之助光直、相続の子息なく、同郡、八木但馬守が舎弟・八木右京といふ人を養子とせり。

その頃、山名伊豆守時氏に属す。八木は日下部の氏族なるが故、宿南の家を継ぐ。この人所領、数ヶ所、持ち参り、もっぱら発向せり。されば信豊、同血の因縁を以って、常陸之助を頼み、宿南の地へ蟄居す。

信豊、子息二人あり。嫡子は田垣太郎宗豊、ニ男を杢之助信俊といふ。兄・宗豊は、観応三年、武蔵野にて討死す。この時、杢之助十一才。これも後に父ともども漂泊し、宿南に住す。また一人の忠臣あり。池田助左衛門といひ、信豊に恩を受けし者なるが、浪人の後まで影の如くつき従ふ。これも勝れし勇力の者にて、数多の戦に手柄をあらはし、信豊を救ひしこと切なり。左衛門片腕の如く思ひ愛せし故、さてこれまで付き添ひたりとぞ。

ある時、信豊、助左衛門に向ひ、さても南帝、御聖運つたなくましまして、諸国の官軍武威衰へ、新田楠もあるかなきかの如く。在々所々に身を隠したまふ。我らもよる所はなく昔の因縁を以って但馬へ身を隠し、草木と共に朽ち果てんと思ふ也。汝は眷属足利の内にありて武威盛ん也。我に付添ひ身を捨てんより、親類を頼み足利へ身を寄せなば一生安全ならん。

われは又父、信季一旦官軍に属し、脇屋の恩を受け、四国に於て討死し、また嫡子太郎宗豊は、御子息・義治の御為め命を落とせり。かく父や子は義心に命を捨てしに、われ何の面目ありて命をながらへん。然れども、諸国の官軍時を得て蜂起し、新田の貴族義兵を挙げたまふと聞けば、一人なりともその時切って出で、親子共討死して御恩を報ぜんが為、暫く山林に身を隠さん。その方は未だ壮年の身といひ武勇に秀でし若者なれば、これより何方へなりとも身を寄せ、立身出世を遂ぐべし。

かく浅ましき、我ら親子に付添ひて一生埋木と朽ち果てんは残念なる次第也。かかる忠節の汝へさへ、いささかの恩賞をも与えずして、離れん事こそ、口惜しけれとて、懐中より金子を取り出し、その半ばを分け、是はわが軍用の為に、これまで所持せしかど、汝が忠節深く、これまで付添ひし恩賞、露ばかりの印なりと差し出したれば、助左衛門、一言の答へもなく、さしうつむきて居たりしが、これは口惜しき仰せを承はるものかな。

それ人は、一言の情けを感じて一命を軽んずるも、人情の実義なり。しかるに、われこれまで君の御恩をこうむりながら、主君の落ぶれ給ふを見て恩義を忘れ、二君に仕へ身を立てんは、人間の恥る所にして道にあらず。われも父、池田兵衛が云ひし言葉、耳の底に留りて忘る事なし。

父われに語りしは、先帝、北条の逆臣を亡ぼし、天下御一統の時に、四海王命に従はざる者なし。しかるに新田、足利、確執おこり、高氏公、朝敵となり、別に天子を立て、その身、征夷大将軍の武命を国下に顕し給ふにつき、名利を重ずる武士、将軍に属し、たちまち王命を背く者十にして八九に満てり。

わが主君、右衛門亮広景殿も足利高経に属したまふ。我らも御供して、足利殿へ参るべし。御舎弟なれば、掃部之助殿は、一度、王命に従ひ、脇屋殿の恩を受けし上は、ただ今、一命を果たすとも二君に仕へずと、義を重んじ、兄弟、立ち別れたまふ。

その時、我らが祖父・池田助大夫、三人の子を持てり。嫡子・太郎と三郎は、父とともに広景殿に従ひ、北朝へつき奉る。二男・兵衛は掃部之助殿へ属し、南朝へつき奉るべしとあるを以て、父は君の御父君・信季殿の御供して、脇屋殿へ参りしなり。

されば父・兵衛は、南朝に身をよせて、一命を捨て、君は南朝の為に、山谷に身を隠し給ふ。われ義心の君父に背きて、いづくへ仕へて名を穢(けが)し候はん。たとへ山谷に埋もれ民家に降りたまふとも、君に付添ひ手足の如く召使はれてこそ父が詞に背かず、わが存念にも叶ひ候へ。是非御暇を被仰候はば、御目の前にて生害し、二心なき心底をあらはし候はんと腰刀に手をかけしかば、信豊驚き押し止め、両眼に涙を浮かべ、かく腑甲斐なく落ちぶれし我ら親子へ付添ひ、一生埋木にならんことをあはれみ、かくは申せし也。

一命をなげうちての忠節、感ずるにたへたり。さらば共に身を隠し時節を待つべしと、主従三人打ちつれ但馬へ下り、宿南の里へ身を隠しける。これ田垣掃部の先祖なり。

日下部氏ならびに朝倉太郎高清が事付 高清、鎌倉の命をこうむり怪獣の白猪を射る事

当国、日下部の伝記を見聞するに、保元・平治の頃、養父郡朝倉の里に日下部余三太夫宗高といふ者、在住す。その根元を尋ぬるに、日下部氏は人皇九代・開化天皇の曽孫・彦坐王(ヒコイマスキミ)の後也と姓氏録に見ゆ。

又彦坐王の五代の孫を船穂足尼(フナホタコネ)の尊と云ひ怪力無双の強勇ひて、夷賊を亡ぼし給ふ。人皇十三代・成務天皇の御宇、但馬の国の造(ミヤツコ)に定めたまふ由、旧事本記に見へたり。後世の人、船穂足尼を表枚(ヘウマイ)親王と言ひ伝ふるなるべし。されば宗高が嫡子・太郎高清、所の地名を名乗り朝倉太郎高清といふ。後、入道して朝倉入道敬雲といへり。

勇力、人に勝れ、武名国中に響かせり。寿永二年、平家に属し西海に赴く。元歴元年、平家滅亡の時、高清、当国に逃げ帰り、七味郡小代谷に隠蟄す。

時に、頼朝、諸国に命を下し、平家の余党を尋ねしむ。当国は三浦之助、承って山谷幽谷に至るまで厳しく探しむ。朝倉太郎、身を隠すべき所なく、鎌倉に下り罪を謝す。

これに依りて、高清を義澄に預け置かれるるとなり。ある時、義澄の嫡子・平六兵衛義村、高清に向かひ御辺の骨柄、凡人の及ばざる容貌なり。力量もまた人に勝れたまふと聞き及べり。かかる勇力ありながら、かく召し人となられし事、口惜しく思しめす。何にても力業をして見せたまへといふ。

高清、からからと打ち笑ひ、唐土の項羽は万夫不当の勇あれども、運尽きぬれば烏江に自ら刎(クビハ)ね、我が朝にても、相馬の次郎将門は鉄身といわれし、豪勇なれども、秀郷が矢に命を落とせり。

われらが如き独夫の小勇、賞するにたらず。かく召人となり当家に預けられしより、日々の御懇じ忘れ難くとこそ存じ候へ。この上は最後の時を待つばかりに候。しかし御望みとあれば、少し持ち得し力、御目にかけたきものをと、あたりを見廻すに、一間に多くの弓を立て並べしを見てあり。中にて強き弓を四五張、お貸しあれといふ。

義村、心得て、滋藤の三人強なるを三張渡しければ、又二張かしたまへといふ。義村また二張渡しけり。高清、五人張の強弓を一張一束につがね、五筋の弦をゆびにかけ、引き絞り引き絞りする事、つねのよわ弓をひくが如く、さして手にこたへる風情なく見えれば、義村、手を打ちて、誠に無双の勇士かなと賞美せり。

その頃、関東に怪猛の白猪ありて、夜な夜なあらはれ出て、五穀損亡し、人を害する事、数を知らず。姿、七尺余り、武士に命じて、これを狩しむるに、昼は姿なく、夜に入りて現はれ出で、飛び行くこと風の如し。弓にて射せしむれども鉄石の如く、矢の根砕けて立つ事なし。人を恐れず駆け廻わり、奪迅の勢、磐石の落ちかかる如く、人を多く踏み殺す。

さしも名を得し勇士といへども、これを討ち取るに術なく、空しく日を送るうち、占者(うらかた)注進しけるは、西国に異形の武士、この怪獣を獲るべしといふ。その人を求むるに、彼の朝倉太郎高清なるべしと。

高清、身の丈、七尺。色黒く遍身・毛深くして熊の如し。又好んで熊の毛皮を以て裘(かわごろも)とし、状貌、人を驚かす。諸人、皆占者(うらかた)の指す所、この人ならんといふ。三浦之助義澄、聞くと、ひとしく鎌倉殿へ、この旨、言上す。

頼朝卿、聞こし召され、されば彼に命じて悪獣を討たしめよとなり。義澄、私宅へ帰り、この旨、高清へ語る。高清、大きに悦び、わが身の浮沈、この時にありと思ひしが、かかる消顕の怪獣なれば、勇力ばかりにては討ち獲りがたしと思ひ、三七日の暇を願ひ、七日の内に当国に帰り、養父大神水谷の社へ参篭し、これを祈り、七日に満つる晩、夢中に明神一筋の鳴鏑(かぶらや)を賜ふ。

驚き覚めて見れば、この矢わが手の中にあり。信心肝に徹し、ありがたく神拝の礼をなし、かの矢を持ちて、鎌倉へ赴き、神授の鳴鏑一筋にて、ついに悪獣の白猪を射倒す。

この功賞に依りて、頼朝その罪をゆるし、所領を安堵し、国に帰るを得せしむ。しかるに、当国の一族、これを聞きて会議して曰く、彼、常に己が勇を奮い、人を蔑(ないがしろ)にする事、法に過ぎたり。このたび大功を顕し鎌倉の命をこうむり国に帰らば、その振る舞い前に倍せん。早く謀らずんば、後、必ず制し難からんと、一族、馳せ集り、建久六年五月二十三日の夜、養父郡堀畑村に待ち受け、朝倉太郎高清が帰るを窺ひ、取り囲んで闇討ちにせんとす。

高清は、かかる企てありとは夢にも知らず、何心なく道を急ぎしに、不思議や先立って、明神より授けたまひし一筋の鳴鏑より、光を放ち、響き渡って飛び出し、真っ先なる従頭を射殺す。高清、これに心つき、従者に下知し、寄せ集めたる徒を十方に切り散らし、国に帰りける。

その後、この神徳を報いんとて養父大神の祭礼に二百本の的を射さす。的の裏に白猪を画きて後世の証とす。また明神の傍らに、表米の宮を建ててその他、城崎・妙楽寺に、わが身も丈とひとしき、阿弥陀仏の像を造りて、安置せしかとや。

初め、高清、男子一人ありしが、没落の時、奈佐奉高が養子とす。これが、奈佐太郎高春といふ。その後、鎌倉の免許をこうむり、国に帰りし後、鳴鏑をば、奈佐太郎に譲る。その後、男子、四人出生す。朝倉太郎高俊、八木五郎重清、宿南三郎光高、田公四郎清景、これ皆、その住せし地名を以て氏とす。これより高清が子孫、国中に満々たり。

高清、八代の孫を朝倉右衛門亮広景といふ。建武の頃、足利尾張守高径に属す。その弟・掃部之助信季は官軍、脇屋形部の太夫義助に従ひ、四国鞆の合戦に討死す。子息、左衛門信豊は漂泊して、主従三人、但馬に下り蟄居せり。

兄・広景は足利高径に属して後、越前の国、吉田の郡、黒丸の城代に補せらる。それより相続きて七世朝倉孫衛門敏景に至るまで、足利家の幕下たり。応仁の乱に敏景始めて、山名宗全に従ひしが、また文明三年、足利へ帰参し、斯波(しば)の分国、越前を給はり、代々所領す。その曾孫・朝倉孝景に至り、織田信長に亡ぼされ、家断絶せり。

田垣左衛門 宿南隠住の事

されば田垣左衛門信豊は主従三人、宿南常陸之助を頼み、城山の麓なる岡に居家をつくろひ蟄居せしが、主従とも勝れし勇士なれば、城主宿南殿より召抱へたき由、たびたび申しつけらるといへども、左衛門親子、義かたき侍にて、これまで新田に属し官軍たりし身の、今、落ちぶれたりとも、なんぞ北朝に属せし同姓の徒に仕へん。

たとへ、民家に降るとも、二君に仕へること、義士のせざる所なりとて、勤仕せざる故、そのまま打ち捨ておきたりける。

家臣・助左衛門は生得さかしき者にて、ひそかに領主へ願ひ、屯田の工夫をなし、農人どもに多く田畑を開かせけるが、追々、徳分、出来(しゅつらい)す。左衛門親子、これを得て心安く光陰を送る。

信豊は貞治五年の夏、卒去せり。寿、六十三歳。子息・杢之助は助左衛門とともに民家となり、田畑を発起し、年々、数十石の徳米を得、父の名を呼び田垣右衛門信俊といふ。

池田助左衛門は当所、居住の内、妻女を迎へ、男子二人出生す。嫡子を助次郎といひ、二男を彦三郎といふ。弟・彦三郎は生得、武道を好み、力量勝れし者にて、宿南殿に勤仕せり。右衛門は宿南の家臣・片山某が娘を娶り、男子一人を出生したが、初老にも満たずして夫婦共相果てたり。

その子を田垣掃部といふ。若年にして父母におくれしを、助左衛門親子、これをいたはり養育せしが、民家に降るといへども内証豊饒に渡世を送る。その後、助左衛門相果て、子息助次郎、父に変らず忠節の者にて、別にわが居宅をも造らず、掃部家の側に、僅かなる居所をしつらへ、妻子をおき、その身は掃部の宅に居て、田畑の徳用を取り納め、少しも私しせず、手先となって日を送りける。

また、掃部の屋敷に、年経しの欅の大樹あり。高く立ち登りし事、数丈の神木なりと言ひ伝へたり。この樹の元に居住せしゆえこそ、田垣の文字を、高木と替えしとかや。

高木掃部妻女の事付 妻女観音に一子を願う事

高木掃部は助次郎を手代として、安楽に光陰を送りしが、妻は美含郡林浦の城主・長越前守家臣・長甚太夫といふ人の娘なり。名を綾女といふ。父、甚太夫は小身侍なれども、先祖は越前守の同血なり。この人、軍学に達せしが、掃部の父・右衛門と懇ろなりける故、信俊存命の節,子息掃部の妻にもらひ置きしと也。

綾女は容粧も人に勝れ、心もやさしき貞女にして、夫を敬ひ、下人をあはれみ、諸事倹約を守りし故、自然と富饒にして、組下の百姓を恵みければ、諸人掃部を尊敬し、出入りの人多く、家内賑はしく、かくて年月を送りしが、掃部、歳三十の余、妻綾女も廿(にじゅう)過ぐれども子供なし。

掃部、折々、この事を嘆かるゝに付、妻女これを気の毒に思ひ、ある時、進美寺の観音に立願を発し、夫・掃部にも隠し、ひそかに精進潔斎し、信仰深かりければ、念願通じけるにや。二十二歳の年、懐胎の身となり、明くる春、男子出生す。

掃部、大きに悦び、名を鶴千代とぞ申しける。成長せるに随ひ、両親の寵愛深かりしが、女は癖づくものか、長子鶴千代三才と申すに、又男子を出生す。これを喜代若といふ。綾女は、これ進美寺観音の御利生なりと思ひ、いよいよ信仰深しとかや。

進美山観音由来の事付三頭の旦家の事

そもそも当国、養父郡に進美山といふ霊場あり。東は須留岐(するぎ)山につづき、西北を大河、山の麓をめぐる。また日前山進美寺(しんめいじ)といふ寺あり。行基菩薩の開基にて、山名を寺名とし、もっとも旧例の地なり。

絶頂には白山権現を観請せり。これは、昔かの山に大樹茂り、天狗、人をなやます故、魔魅を防がん為、行基菩薩この山の頂きに権現を観請せられしとなり。

されば、今に至りても、折々、天狗の通行ありて空中動揺し、或は木上火など見ゆることあり。絶頂は女人禁制なり。

      太田文に曰く・・・・・・
               根本中堂領  進美寺 三十二町五反
               領家聖憲法印  地頭河南木小三郎入道
                                     蓮忍

この山、養父郡気多郡の境にあり。太田文に気多郡に入る。
       
       かの縁起に曰く・・・・・・・

人皇四十二代・文武天皇、慶雲二年、行基菩薩開基したまふ。また、人皇四十五代・聖武天皇、天平十年、勅して、十三間四面の伽藍ならびに、四十二坊の別院を建立しあり。寺領は赤崎、岩中、日置三ヶ村の内に於いて宛て行はる。

また人皇・八十二代鳥羽院の御宇、仁平元年八月十七日、御願寺として、大般若経六百軸を寄付し給う。その後、嵯峨帝、亀山院二代同じく御願寺として領二百畝を増し給ふ。建久八年、源の頼朝卿、五輪宝塔八万五千基を日本国中に造立し、内五百基を、但馬国に宛てらる。三百基は進美山に立て、二百基は国中の大名に仰せつけて造らせらる。これ平家一門滅亡の冥福を修せんがためなり。これより毎歳、御祈祷の巻数を鎌倉に奉る。

その請文ならびに国中の大名等、当山に狼藉を致すべからざるの、御教書数通、今にあり。

その後、人皇百一代・後小松院、至徳年中に、城崎郡温泉寺、清禅和尚、当国に順礼三十三所の観音の札所を定められ、この寺を以て第一番とす。然るに建武延元以来、国中、大いに乱れ、当山に城を構へて要害の地とす。これより、仏事懈怠して僧坊いたく滅亡せり。

この山の頂きに少し下りて池あり。昔、かの池のほとりに光り物出現すること三夜に及べり。住職の法印はこれを知りたまはず。麓なる日置、赤崎、岩中などいえる里々の者、これを見つけ、何様怪しき光なり。行きてこれを見とどけずんばあらずと、旦頭の人々七八づつ登山するに、三ヶ村、行きて見るに、かの池より、細く直ぐなる三筋の光気、天に立ち上る事、流星の光の如し。

さして驚くほどの事もなく、不思議に思ひながら山を降りて見れば、空天、赫耀として火の燃ゆる如く、耀気十方に満ち、一天白昼に異ならず。また登りて見れば、ただ一筋の光明なり。

かくの如くする事、二夜に及べり。然れども、いかなる訳といふことを知らず。空しく寺に行き、法印に対願し、さても当寺の傍らに、一筋の光明ありて、天に立ち上りて火の燃ゆるが如く、麓の里に耀気の目を驚かす。これによりて、寺内に変あらんことを案じ、彼の光の立ち登る所へ行きて見るに、ただ一筋の光、池の中より出づる不思議なる事ゆえ、お尋ね申す也。

寺中に何の訳もなきや。時に法印、三人の旦頭を伴ひ本堂に招き、さても各々の池の中より光気の出づるを見られしは幾夜なるぞ。三人言葉を揃え、一昨夜半の頃より見付け、昨夜共に二夜なり。法印差しうつむき、三ヶ村より旦頭言ひ合わせたる如く、登山せられしも奇特なり。われ昨夜、不思議なる夢をこうむれり。

所は当山の峯と思ひしに、金色の老僧、白蓮華に乗じ、わが前に立ってのたまわく、我はこれ当山を護る者なり。この池に有縁の仏ましまし、今宵、この山に出現し給ふべし。

これまで竜宮城に、とどまりたまひて、この閻浮台に出でたまはざりしに、この地、信心の衆生あって仏法に帰依する者多し。さるに依って今、当山に出現す。光仏と申すは、釈迦牟尼仏、御在世の時、摩訶迦葉、末世の悪衆生を助けたまはんが為、天現自在の御手を以て造り出させたまひし尊像なり。

昔は天竺、王舎城にありしを、菩提流支三蔵、唐土(もろこし)、天台山に安置せり。その後、かの仏、百済国に影向(しょうこう)したまひ、その国の衆生、多く御利益をこうむりしが、百済国、馬韓の皇帝・済明王、第三の皇子・琳聖太子、かの仏を信仰したまひ、肉身の如来を拝せんと誓願を発したまふ。

仏、夢中に太子へ告げ給はく、日本の皇子・聖徳太子と申すは、過去世法明如来なり。今、日本に降誕して衆生を済度したまふ観世音菩薩なり、と告げ給ふ。琳聖太子、信心、肝に徹し、やがて船を装り、かの閻浮金三尊の仏像を守護し、公卿、百官、百余人を召し供し、日本に渡りたまふに、海上俄に悪風おこり、逆波、天に立ち登る。

太子の御船、すでに覆らんとせしが、御厨子の中より観世音菩薩、光を放って、飛び出で給へば、弥陀、勢至の二尊ともに海底に沈み給ふ。これによって、風波忽ちに収まり、太子の御船つつがなく日本・九州の地に着岸し給ふ。

これ即ち八大竜王、かの三尊の霊仏を竜宮界へむかへ奉り、苦難をのがれんがため、かかる逆浪の変を発せしもの也。たとへ、いかなる悪竜にもせよ、観音の威力に近づくこと、なりがたしといへども、未だ、その時は、この国の仏縁に薄し。竜界へ深き因縁まします故、海界に沈みたまひし也。今、竜宮界の縁尽きて、この国に出現したまふ。即ち、当山の池より、ようがいしまします故、汝これを拝すべし。

我は是れ行基なり。必ず疑ふことなかれと言って、東を指して去りたまふと見て、夢さめぬ。余りの不思議に心動じ、本尊の御前に礼拝して居たる也。

かく各々に語るといへども、我が心、茫然として、今に夢うつつの境をわきまへず。しかるに、かたがた、かく未明に登山せらるること、仔細あらんと思ひ、ここへ招きしなり、と申さるる時、三人言葉を揃へ、さては、この度の光物こそ、霊仏、かの池より出現したまふ奇瑞なり。少しも疑念をなすべからず。

我らも今日、当山にとどまり、仏の影向を拝せんと、召し連れし者どもは、皆々里へ帰し、旦頭の人々、三人留り、法印はじめ歓喜の涙を浮かべ、日の暮れるのを待ち居りたり。

進美山観音、池中より出現の事

かくて法印、沐浴七度にして、清水に身を清め、九条の袈裟を書け、池の四方に香を焚き、花をかざり、夜に入るのを待ちかね、かの池の汀に座したまへば、末寺の僧達、法印の後ろに座し、三人の旦頭は俗体なれば池の辺に少しはなれ、法印を守護し、仏の出現、今や今やと待ち居りたり。

夜も亥刻に至れども、何の奇瑞も顕はれず。
深山大樹茂りたる岸にある池なれば、黒闇の如く暗かりし。丑の刻とおぼしき時、池中より、一筋の光、天に立ち登りて、赫耀たり。

法印はじめ、守護の人々、声高に光明真言を唱え、歓喜の涙を浮かべける。やがて、寅の上刻に至る頃、山河しきりに動揺し、池の中より紫雲立ち登ること、煙の如し。霊香、天地に薫す。法印怪しと思ひ合掌し、池の中を拝したまへば、光明の中に八寸ばかりなる勢至菩薩、金色の尊像より、光を放って顕はれたまひ、矢を射る如く空天に登りたまふ。

法印は夢の如く後をかへり見、各々仏の尊像を拝したるか。皆々言葉を揃へ、光は拝すれど仏像は拝見せずと言ふ。間もなく、池中に光明立ち登る有様、朝日の出づるが如く、天地耀々と先に倍せり。霊香さかんに薫じ、光法印の面に徹し、目も開き難し。されども法印一人の目に顕はるばかりにて、余の僧侶の目にはただ光明の外は見し人なし。

法印、信心肝に徹し、額を地につけ、声高に真言を唱え、目を開き拝したまへば、光の中に二丈ばかりと見えし弥陀尊像、あらはれたまひ、これも天に飛び去りたまふ。

法印、思はれしは、かかる霊仏当山より出現したまへば、末世の衆生を助けたまひつらん、と思ひしに、空天に飛び去りたまふは、当山に仏縁なきか、または、わが身の不徳なるか、何様夢の告げには三尊と聞きつれば、やがて、あとより一仏尊、出現したまふべし。

今度は留め奉らんものをと思ひ、九条の袈裟を脱ぎ、これを打ち掛け留め奉らんと、仏の出現、今やおそしと待ちたまふ。あんの如く、耀きければ、すはこの時と思ひ、池の中を拝したまへば、紫金の光明赫耀として、五色の雲、虹のごとく立ちのぼる。その中に、先に出現したまひし、勢至の如くなる観世音菩薩の尊像、光を放って現はれたまふ。かくと見るなり、かの袈裟を覆ひかけ抱きとめ奉り、南無大慈大悲無尽意菩薩、当山に留まり衆生を助けたまへと、観音陀羅尼真言を唱へながら寺内を指して馳せ帰り、直ちに本尊の御前に袈裟を包みながら、金欄の打敷きをしき、その上に置きたてまつり、数ヶ所香を焚き不浄をはらい、信心肝に徹し、礼拝せらるるに、かくて次ぎ次ぎの僧俗、法印の詞につき随ひ寺内に帰り、仏まいらんとせしが、不思議や、常には何の事もあらざりしに、悪仏の恐れにや、余の人々は、五体すくみて、同間に入ることならず、間を隔て、礼拝せり。

その後、清浄の御厨子に納め奉り、戸帳をかけ、かの霊像を奉納せられしに、尊像の重き事、常のかねに倍せり。金色の御膚、あたたかなること生きたる人の肌の如し。不思議というも愚かなり。

かかる霊仏ゆえ、やがて観音堂を建立し深く内陣に納め、俗人、不浄身にて、直に拝礼なりがたきゆえ、別像を鋳奉り、御前に安置しける。これより、諸方へ伝へきき、参詣の男女、日夜絶えず。霊験の利生あらたかに諸願たちどころに叶うが故、末世の衆生尊敬し奉り、今世までも霊験昔に変わらざりしなり。

かかる尊き観音なれば、掃部の内室、深く信仰ありしも理なり。
当山の仏、出現ありしより、かの池に清水わき出ずる事、湯玉の沸き出づるが如く、諸方、この水を汲むに、いかなる日照りにて、大川の水減ずる夏といへども、水勢強く、減ずることなかりしに、建武延元の乱より、当国武士狼藉をなし、当山に要害を構へ、多くの坊を破却し、池を穢ししより、湧き水止まり、忽ち空池となりしは、あさましきことなり。

掃部内室、花見に出づる事付 狼を助くる事

頃は永享七年、弥生の始めなりしが、山々の雪も消え、暖和の気を催し、櫻花所々に咲き満ち、賑わしく長閑にて、人の心も浮かれければ、掃部の内室、手代、助次郎を招き、この頃は天気よく、山々の花も今を盛りなるべし。
 
子どもや従女を伴い、一日花をながめたく思ふなれば、掃部殿へ申し候へ。助次郎、仰せの如く近頃は俄に暖気を催し、数日天気にて、道も乾き候へば、花見の興にはこの上もなき時節なるべし。婦人方は常々外をも見たまはねば、御欝気を晴らしたまふにも御養生なれば、旦那へ申し上ぐべしとや。

掃部、聞きて、尤もの事なり。近々天気を見合わせ、下男下女諸共にその方、案内して慰め候らへ。見るばかりにては、さしもの興もあるまじ。酒肴弁当など沢山に用意し、近所の者共を加へさらい、その方、何かを調ふべし。

助次郎、心得、天気を見合わせ、下男下女を打ち連れて、一日花見に出でける。
助次郎、綾女に向ひ、この谷の奥、三谷村の山へ櫻の数多く、山の峯に独活(うど)、蕨なども最早新芽を出し候ふべし。とてもの御慰みに、花ご覧じながら、その方へ御廻りあれやと言ふ。

その方,よからん方へ案内候へと、山の尾伝ひ、花をながめながら三谷の方へ歩み行く。ここは櫻大きく咲き満ちて、さながら吉野の花盛りもかくやと、思ひ皆々興じける。場所よく山の尾伝ひに毛氈、弁当、酒肴取り散らし。従女なり下男は独活(うど)、蕨(わらび)など摘み取り、綾女を慰め楽しみけるが、一人の下男、雑木の生え茂りたる所へ深く行きて、独活芽を取らんとせしに、地の底に狼の啼く声きこゆ。

おそろしく思ひながら、よく辺りを窺ひ見れば、古き鹿の落とし穴あり。その口へ草木は生ひしげれり。その穴に狼、落ち入りしなり。是より人々にも語りければ、皆々行きて見んとて穴の口へ寄り集まりけれども、口狭く、深さ一丈もありなんと思はるるに、底暗く、狼の姿も見えず。

綾女、下男に口の草木をさり、内の様子を見よとなり。下男、用意せし花切り鎌にて、穴の草木を刈り取りけれども、井戸の如く深ければ明らかに見分けがたく、顔さし出し覗き見れば、大きなる狼、穴の底にありて、二つの眼光りけり。

また側の小さき子、二匹見えたり。犬の子の鳴くが如き声を出す。皆々恐ろしきながら、除き見たりしが、下男、助次郎に向かひ、この麓に見ゆる三谷村に多知見沢右衛門といふ人あり。父は牢人にて藤弥(とうや)といふ。弓の上手にて三谷村に住居し、猪、鹿、猿の類、その外雉子、山鳥など、射取り渡世とせり。この人相果て、子息・沢右衛門も折々、鹿、猿など射取りしを度々見て候。この人を招き、狼を殺さすべし。近ければ、馳せ行き呼び来り候はんといふ。

綾女、押し留め、その方は何とてかかる不義なることを言ふぞ。我ら今は花見に出でしは気を晴らし心を慰めんためばかりなり。狼のあやまりて穴に落ち入り苦しむを不憫とはとは思はずして、殺さんといふは、いかなる事ぞ。

五穀に害をなす獣ならば、時によりては是非もなし。これとても、今日が如き時節に殺すは、無益の殺生なり。獣の中にても狼は作物に害をなさず、殊にはげしき猛獣なれば、かく深き穴などに落ち入るもにはあらざれども、察するところ、二つの子、誤って落ち入りしを助けんために、その身もかかる難儀にあひしものならん。

生ある者、命を惜しみ子を思はぬはなきぞとよ。焼野の雉子の身を果たすも、みな子を思ふが故なり。目にかからねば是非もなし。かかる事を見つけながら、救ひ助くる心なきは、情けの道を知らざるに似たり。早々一方掘り開き助かる様に計らひ候へとなり。

皆々、日頃、綾女の情け深き心に恥じ、下男、人家へ走り、鍬を用意し来りければ、鶴千代母の袖をひかへ、狼の難儀を救ひたまふは御もっともなり。しかし穴口をp掘り下げ伝ひをつけなば、飛び上がり害をなさんも計り難し。養ふ犬に手をくらわるるといふ喩へあるに、況んや猛き狼なれば恐るべし。母上なりわれらは従女とともに此処を去り、元の座に行き様子を見るべし。助次郎はじめ両人とも心を配り用心したまへとなり。鶴千代、当年、十三歳なりしが、智恵さかしく、壮年の人にもまさりて発明なり。

綾女、打ちうなずき、よくも心づきしものかな、と言ひつつ穴の中へ少し顔を出し、下なる狼よく聞き候へ、われは掃部の妻なるが、その方が難儀を見捨てて帰るに忍びず、助け得させんと思ふなり。必ずあやまりて人に害をなし候ふな。その方を不憫と思ふが故なりと、静やかに申されけるに、狼、怒れる姿を和らげ、光渡る眼を閉じ、うつむき伏したりける。

皆々之を見て、畜生なれども、人の言葉を聞き取りしやと思ひつつ打ち連れて元の座に行き、見物せり。

助次郎と下男は替る替る穴の口の一方を溝の如く掘り下げる。されども狼は綾女の言葉を聞き分けしや、少しも動かず、死せる如き有様なり。二人、休みなく堀りしゆえ、狼の居る所へわづか三尺ばかりになりぬ。助次郎、二人に向かひ、最早、飛び上がるに易からん。されども、われらここに居ては恐れて上へあがるまじ、いざや、人々の方へ行かん、と立ち去りける。

皆々、打ち寄り、様子を見れば、狼、子をくわへ飛び上がりて三匹とも穴の口へ姿を現はし、暫くありて、親狼、人々の方へ向かひ、ニ、三間歩み行き、一声鳴きて地に伏したりしが、子を連れ林の中へ隠れける。

皆々、これを見て、かかる命冥加にかなひし、狼こそなければ、奥方の情あらずんば、かやうの者を救ひ助くる人あらじといふ。綾女、これを聞き、窮鳥懐に入るをば狩人も之を捕らずとかや。日頃、人間を恐るる獣なれども、穴の底に落ち入り上がることかなはず。とても死なんずる命と知り、人の音のするを聞き、声をあげて鳴きしは助けてくれよと、言ひしならん。之を見て、見捨てるは心なきに似たり。

されば昔、釈尊、雪山童子たりし時、山中の石上に座禅したまふ折節、鷹ありて三羽の鳩を追ひ来る。この鳩、疲れて遁るる所なく、童子の膝の上に落ちたり。童子、御袖を覆ひ隠したまへども、鷹、これを知りて童子の御前にとどまりて動かず、その時童子、御身をそぎたまひ、鳩の重さほど鷹に与へたまふ。

その心を歌に詠めるあり。

   これやこの 真白の鷹に 餌を乞はれ 鳩のかはりに 身をそぎし人

かやうの事さへあるに、狼なればとて、親子三匹の命、空しく穴の底にて飢え死なんを不憫と思ふが故、殊に狼は長寿の獣にて、命を惜むこと、説なりときく。
 
今日、われら花見に出でずば見付ける人、あるまじきに、図らずも彼の命を助けしこそ、過去の因縁ならん。悦ばしとぞ申されける。

かくて、日も西なる山の端にかかり、夕暮近くなり行けば、いざや里へ下らんと、打ち連れ、家路に帰りけるなり。

狼、掃部の田畑を守る事付 助次郎が嫡子・勝之助夜盗を討ち取る

その頃宿南の庄へ在城せる城主は八木右近とて、当国大守山、伊予守・時義の幕下、八木但馬守の舎弟にて、宿南の小城主・修理之助光直の養子なり。宿南右京といふ。所領、数ヶ所持ち来り権勢重く、八木但馬守の如く、外々の小城主尊敬せり。

然るに性質悪逆にして智ある者あれば刑罰に行ひ、領地の百姓に貢の外、夫役をかけ、奢りつよくはなみを好みける故、領地の百姓なげき怨むといえども領主の権勢におそれ、一統世渡りに苦しみける。

掃部は豊饒にして夫役にかかはらずともいへども、右京の養父・修理之助に因縁ありし上、祖父・左衛門信豊、義理堅き武士にて二君に事へず。光政の領内に隠住し、民家といえども陰士と呼び、城山の麓に閑居してけるゆえ、余の平百姓とはちがひ、貢の外には諸役を受けず、内証自然と豊か也。

その頃近辺へ猪鹿大いにあれて作物を害ふこと甚し。これによって里々の農家、家内の老若男女、銘々の作場に手分けをなし、太鼓を打ち拍子木を鳴らし番をなせり。されども少しく懈怠あらば作物をあらす故、夜分といへども、家に留まる者とては幼き子供や、用に立たざる老人ばかりなり。

その頃は諸国乱れて静ならず、国々に漂泊せる牢人など、此の国に多く徘徊し、夜な夜な人家へ押し入り金銀米穀は勿論、着類雑具に至るまで、盗み取るゆえ、里々の百姓、内を守らんとすれば外なる作物を害なはれ、外を守らば家危うし。

内外の難儀に心を苦しめ、片時も安き隙もなく当惑せり。

これにひきかへ、掃部の家は田畑多けれども番をも附けず、只常の如く打ち捨ておくといへども、畔を界として猪鹿少しもさわらず、皆、不思議也と風評す。先年内室に救はれし狼の守護するならんと言いあへり。

また、池田助次郎に男子二人、女子ひとりあり。兄は勝之助、弟は竹市といふ。兄勝之助は掃部の長子・鶴千代に二年早く出生し、今年十七歳、力衆人に勝れ、幼少の時より武芸を好みければ、父・助次郎、これを諌め、汝が父助左衛門までは、武道を専らにせしが、これも主人左衛門殿、二名に仕へんことを恥ち民家に降りたまひしなり。父も主人に従ひ、武を隠し農業をなして身を終われり。われ亦父が跡をつぎ、主人掃部殿へ仕へ業をんして妻子を養へり。汝もわが如く鶴千代君に仕へ、二心なく御奉公致すべしといふ。

勝之助、父の詞を聞き、さしうつむいて居たりしが、昔より代々土民の家に生まれなば是非もなし。主人の御祖父・左衛門信豊殿は武勇勝れし御方、わが祖父・助左衛門も武に秀でし人にして、主人・信豊殿と共に数度の合戦に功ありしこと人口に及びし也。

信豊の二君に仕へたまはずして、かく山谷に閑居ありしは、南方の官軍、時を得て蜂起し新田の人々、義兵を挙げたまはば、その時切って出でん御所存也。

然るに明徳3年南帝御和睦ありて三種の神器入洛したまふ。之に依って諸国の官軍力を落とし、或は自害し、又は諸所に漂泊し、和田楠は紀州へ蟄し、新田の人々も四国に蟄居し、あるか無きかの如く衰へたまひしかは、信豊力を落とし、其年卒去したまふこと鬱憤凝って骨髄に徹したまふが故也。

かかる義士の子孫としてかく民家に降り、山谷に埋もれ木となり果て給ふこそ口惜しけれ、当君や父はともかくも、われは武芸を学び、軍法に秀でなば然るべき方に身を寄せ立身し、一度主人御兄弟の内を世に出だし奉らん。

つらつら当世の有様を考へ見るに、将軍足利の武威衰へ国々の諸侯武将の名を軽んじ、叛逆の企てある大名世に多くして、かかる時節に生まれながら武道の心がけなく、一生農夫となって朽ち果つるは口惜しき次第なり。

われは祖父助左衛門が気質を受けつぎて一度思ひ定めし事は身を果たすまで翻す心なし。農夫となって主に仕へさせんと思し召さば弟竹市に跡を嗣がせたまへ。われは心にかなひし方に身を寄すべければ武芸に稽古を許したまへと、思ひ込んだる面色なれば、父助次郎せんかたなく、左程に思ひなば汝が心にまかすべし。

懈怠なく、武道を鍛錬すべし。かへすがえすも主人をおろそかに思ふべからず。われも汝の申すところの心なきに非ざれども、心ならず農業をなして一生を過ごせしといふ。

ここに宿南右京殿の近習に、大島兵庫といふ剣術無双の達人あり。これは新田の家臣・郷孫三郎といふ勇士の嫡孫なる由。されば力量人に勝れし豪傑にて、八木但馬守よりの付人なり。勝之助、この人に従ひ武芸を励みける。かれ智謀にすぐれ、力量人に越えたれば、兵庫深く愛し、十三歳の年よりこの人に仕へける。

掃部は嫡子鶴千代の片腕になるべき者なりと、彼が武芸に秀でしを喜びし也。二男喜代若、之を見習ひ武芸を好む。兄鶴千代は智恵勝れて発明なれども、その身弱和にして武道をきらひ文学を好み、朝暮母の側に居て読書の外他事なし。心やさしく孝心深ければ、父母の寵愛浅からざりし。

然るに近年飢饉打ち続き、農業商家とも渡世に苦しむ。その上に諸国乱れ世上騒がしかりしが、当国の大守山名伊予守時義より軍役の用金かかり、手下の領主、之を取り立つる。この近辺は垣屋筑後守、百姓町家に至るまで取り立つること甚だ厳重なり。

されば下地の飢饉に困窮せる上、かかる取立てにあひ、無力の百姓は着類まで売り払ひ怨みなげくもあり、又は力及ばずして在所を立ち退くもあり。宿南右京の領地は別して近年困窮し,比度の夫役に差し詰まり、調達の術なく、住所を捨て逃げさる者多し。

掃部は内証ゆたかにて、庄内の百姓至て困窮の家には金子を出し恵みければ諸人深く悦べり。ある時掃部の舅、長甚太夫より要用ありて美含郡林の方へ行きしが、手代助次郎並びに下男一人召し連れる。よんどころなき用事にや両三日逗留せり。

折節、鶴千代近頃病気になりしが、此の一両日別して重く見えし故、助次郎主人と一緒に出づる時、子息・勝之助を招き、われら今日主人と共に美含に行くなり。折悪しく、鶴千代様大病なれども、よんどころなき要用なれば下男も一人召し連れらる。家内不人なれば、汝、今日より我ら帰るまで、兵庫殿へこの訳を願ひ、留守いたし、御病人へ気をつけ候へといふ。

狼、掃部の田畑を守る事助次郎が嫡子・勝之助夜盗を討ち取る その2

その旨心得、夕方より掃部の家へ帰りける。夜に入れば病人鶴千代に気をつけ、舎弟喜代若と武芸稽古の事など物語して台所に休みける。勝之助、今年十七歳なれども、常々心がけよき者ににて太刀を枕とし、帯をも解かで休息す。

明る夜も病人の伽して夜半の頃まで居たりしが、深更に及びて臥したりし。既に夜も八ッ半と思ひし頃、門の戸を荒らかに叩く者あり。誰ぞと問へば助次郎也。今帰りしといふ。勝之助起き上がり戸口に出で戸をあけんとせしが、油断なき者なれば、掛け金にしかと手を掛け、主人も帰りたまひしや。いや急用にてわれらばかり帰りしと。

その語音、父の声にあらざれば猶も不思議に思ひ、いかなる急用なれば夜通しには帰りたまふぞ。されば大切の急用なればここにては言ひ難し。何とて戸をあけぬぞ、あららかに言ふ。

勝之助いぶかしみながら、かく寒き夜に道を急ぎ気をせけば声の変るることもあるものなり。その上われかくある上はいづれの事ありとも苦しからずと思ひ、掛け金を外し戸の後ろにまはり、少し引き明ければ、外より無理に押し開き、黒き頭巾を着たる大の男、5人まで続きて内に入るを見れば、父にあらずして強盗と見えたり。

勝之助、さてこそと思ひ声荒らげ、かく夜中に会釈もなく押し入り込むは何者なるぞ。鬼王の如くなる者立ち並んで、小ざかしきわっぱかな。われらはこの内に金子あることを知り、奪ひ取らんため来りしなり。汝金の在りかの案内ぜば助け得さすべし。

邪魔ひろかば只一討と、皆々抜き身を提げたり。勝之助、少しも臆せずいかにも汝らが察するが如く、少しは金の貯へもあるべけれども、主人の宝なれば我らがかって在る所を知らず。よし知りたりとも、其方たちに与ふべき金はあるまじ。早く帰らばその侭ゆるし遣わすも、思ひあなどって無礼をなさば目に物見せて得させんと、太刀の柄に手をかけたり。

強盗怒って、さては手強き小倅、只一打ちにせよといふ侭に、二人抜打ちに切ってかかる。勝之助、ヒラリと身をかはし渡り合ふぞと見えしが忽ち二人を切り倒す。三人これを見て左右より切ってかかるを事ともせず、身をかはすこと飛鳥の如し。

ひらめく太刀電に異ならず。さしもの三人、ここかしこ切り倒され、5人の死骸広庭に算を乱して倒れ伏す。この物音に驚き、内室綾女、なげしに掛けし長刀の鞘をはづし出でければ、側に臥したる下女などは恐れわななきここ彼処に隠れける。一人の下男外に臥したるが庭に馳せ入り、此の有様を見て、どうてんし、草履をも脱がず座敷をさしえt逃げ上ぼる。

鶴千代は大病なれば枕刀を杖につき母の後ろに立ちたりける。舎弟・喜代若十二歳なりしが、短刀を抜き持ち、真向にかざして走り出で勝之助が側に行き、汝斬られはせじかと。勝之助打笑ひ、何条斬られ候ふべき。

喜代若、幼少なれども庭に飛び降り死骸を見廻りけるが、未だ息絶えずしてにじりまわる者二人あり。喜代若、飛びかかり二人が胸板三刀づつぞ刺したりける。綾女は左に病人鶴千代の手を引き右に長刀を持ちながら、勝之助が怪我なきを悦び、下女や下男を呼びけれども、皆驚き恐れ側になし。

勝之助は血刀押し拭い、少しも動じたる気色なく喜代若の手を引き座敷に上がり、御無用なりしといふ。綾女二人をつくづくと見て涙を浮かべ、誠に蛇は一寸にしてその気を吐くとや。その方の祖父、助左衛門と言ひし人は、当家の譜代の忠臣にて、武功の人なりしと聞く。わが舅、左衛門殿の父上、信豊殿に従ひ、度々の合戦に軍功ありし由。

されども主従とも運拙く民家に降りたまひし事、是非もなき次第なり。その方が今宵の働きを見れば、いまだ十七歳の小腕と言ひ、加勢の者とては一人もなきに、屈強なる強盗5人まで討ち取り、わが身は少しの薄手をも負はず。

伝へ聞く鞍馬の牛若とやらんは江州宿にて、初太刀に多くの強盗を討ち取りしと聞きし。恐ろしき達人なりと思ひしに、今宵の振舞、古への牛若丸に等しき働き也。これにつきてもその方の祖父・助左衛門の昔思ひやられ候ぞや。

また、喜代若が幼少の身として、かく恐ろしげなる強盗の切り倒されし姿を見て少しも恐れず、止めを刺したる心の不敵、曽祖父・信豊殿の孫なるべし。鶴千代は大病にて全快の程も覚束なし。とにもかくにも喜代若をばその方に頼むぞと、涙を流し袖を顔に当てられける。

勝之助、何とてさように心よわげなる事を仰せ候ぞ。何条乞食に等しき強盗の、百や二百たりともさのみ手柄とするに足らず。只大切は、鶴様の御病気この上風など引きたまひなばあしかるべし。早く御病床へ御休み候様、御介抱なさるべし。夜の明くるに間もあるまじ。拙者は盗人等が死骸を片付けさせ、御庭を清め申すべしと納まり切って居たりしは、流石、池田助左衛門が孫なりと見えし。

やがて夜も明けなんとせし故、近所の農夫を招き、掃部の方へ飛脚を立て、この旨領主へ届けしかば、早速検使として多田与市、池田彦大夫、来りてよくよく死骸を改めける。池田彦大夫は助次郎が弟にして勝之助が伯父なり。

前に彦三郎といふ。勝之助が手柄をほめ、委細様子を聞き取りける。間もなく掃部の主従馳せかへり始終の様子をきき、夕夜半の頃しきりに胸騒ぎせし故、助次郎起こせしが、これも胸動する由申すにつき、さては鶴千代が病気変あると思ひ、未明に林甫を発足せしに道にて飛脚に逢ひ、様子聞けば思ひの外なる珍事也。

しかし、家内に別状なく、勝之助が働き天晴なる手柄なり。これ偏に大島兵庫殿の御蔭にて武芸に達せし故なりと称美しける。それより彼の強盗共の死骸を下なる谷川の深みに引き出し。面体の血を洗ひ落として見るに、近辺の者にてもなく、さては諸方より集まりし悪党ならん。早々河原に埋むべしと也。

この騒動により集まりし農夫の中に、かの死骸に目をつけて言ひしは、この5人の内に、姿よく見えて左右の腕を切り落とされたる者こそ、いつぞや三谷の沢右衛門と同道して折々ここを通りたる者ならん。面体着類等見知りなりと言ふ者あり。

狼、掃部の田畑を守る事付 助次郎が嫡子・勝之助夜盗を討ち取る その3

掃部これを聞き、よく見定め候へ、左もあらねば沢右衛門を招き見すべしと、人を遣し使の者同道にて急ぎ来るべし、と言ひ遺りける。沢右衛門早速馳せ来り掃部の前に手をつき、昨夜強盗押し入りせし由承はる。しかし御家内に怪我なく、先づ以て安堵せり。拙者に参るべき旨仰せ下されしは何事やらんといふ。

掃部、されば夜前我ら要用ありて主従他行せし留守を考へ夜盗5人まで押し入りしを勝之助一人にて残らず討ち取りたり。強盗の中にそこもと見知りたる者はなきや、この儀を尋ねんため急き招きし也。沢右衛門5人の死骸をよく見るに、袈裟切、又は胴切なるもあり、眉間より竹わりに切られたるもあり。

中に一人左右の腕を切り落とされたる者あり。この死骸をつくづく見て、この者こそ先立てわが家に来りし者也。仔細を語り申すべし。我ら五ヵ年前妹を連れ都に登り、さる公家の内へ奉公に差上げ、帰国の折、この者と道連れになり、互いに身の上を語り合ひしが、彼が名は多々良藤馬といふ者にて播州赤松の牢人なり。

鎗術を得たる由をいふさては何れも同じ牢人なり。若し然るべき主君に仕えなば、互に力ともなり合ふべしなど語り合ひしが、彼は何国とも定まりし住家なしといふ。わが住所を尋ねし故、但馬養父郡三谷といふ山里なる由申せしに、もしその後縁あらば訪ね申すべしと言ひて別れ、その後縁絶えて見しことなし。

然るに当夏わが方へ尋ね来り、牢人の身甚だ難渋なり。当国に召抱へらるべき所あるまじきや。思し召しの方もあらば世話致し呉れ候へと申せしかど、わが身さへかく困窮して頼るべき方もなければ、当国は山名の幕下の大小名多くありといへども、何れも郎従多くして、かく申す我らも弓道少し心得たれども、何方よりも召出されず独身の渡世さへなり難しと言ひしかば、彼の者懐より竜の姿なる珊瑚珠の文鎮を取り出し、これ御覧候へ、我らが祖父は多々良馬之助と言ひし侍にて、赤松円心の長子・信濃守則祐に仕へし者なり。この文鎮も信濃守より拝領す。

われかく牢人の身となりても、これは先祖の形見也と思ひ、今まで身を放さず。されども近年諸国の飢饉に身を寄すべき方なく、飢渇に及び死せんとす。当国は少しおだやかなる国なれば、之を買ひ取るべき方もあるべし。

御世話下さるべしと頼む故、心には染まねども追ひ出さんも心なしと思ひ、武器ならば望む人もあるべけれども、かやうの品は富家にあらずんば望む者あるまじ。下郷には百姓町人の中にも福饒者あれば当って見候へ。

我ら幸ひ下方へ用事あれば同道して行かんと申せしかば、ひたすら頼む由申すに付、城崎、豊岡など内福の方へ見せ候へ共、価高値に申すに付、買ひ取る人もなく、夫よりここかしこに内福の家を教へ候へば、美含、二方の方へ参り候ひしが、その後は来り申さず候ひしが、一両日前に又来り一宿を乞ひ候故、右の品は金子になりしかと問えば、未だ所持せる由言ひしが、さては彼悪党の同類をかたらひ貴家へ押し入りせしならん。

にくき奴ばらかな。但し珊瑚の文鎮を所持せしやよくよく懐中吟味すべし。懐中をさがしみるに、布紗に包みし物あり。取り出して見れば沢右衛門が言ふ如く珊瑚珠にして竜の貌ちを彫り現はせし文鎮也。

掃部、取りて見れば珊瑚に相違なし。さてはと思ひ寄らざる事也。若しその方を招かずばそのまま土中に埋むべきに、能くも招きし者かな。

先ず死骸をば埋めよと、組下の農夫共筵(むしろ)俵に包み河原に持ち行き埋めけり。掃部、沢右衛門を伴ひ私宅へ帰り、助次郎を以て大島兵庫の方へ、かの文鎮持たせ遣はさる。兵庫、直ちに右京殿へ持参あり。頓て御使来りければ、右京殿直ちに掃部に目見えあり。

夜前汝が宅に強盗共入り込みし由、折節無人にてありしときく。その方の手代、助次郎とやらんが一子、未だ若年の身として多くの強盗を討ち取る事、民家にては奇態の働き賞するに堪へたり。然るに盗賊の紅竜の文鎮を所持せし者ありとて先刻兵庫持参せり。

珍器なれば当時預り置くべし。勝之助が武芸をたしなみしに非ずんば家危かるべし。留守内にて家内の者多く殺害にあはばわが領内の不吉といふべし。

さるに依て寸志なれども即座の褒美を遣はすべしとあれば、大島兵庫、勝之助事、この度若輩の身として、多くの強盗を討取り主家の災難を救ひし事、非類の働き也。御褒美として以来帯刀をゆるし、青銅五貫文下さる也。

又、掃部、紅竜の文鎮を献ずること奇特の至り、御褒美として青銅三十貫文下だしおかるる也。掃部主従難有仕合御礼申上ぐる詞なしとて、悦び退出いたし、直ちに沢右衛門を招き領主の御褒美を悦び、その方知らせずば珍品を空しく土中に埋めしなるに、是れ互の仕合せなりと、頂戴せし青銅の半ばを分け、十五貫文を沢右衛門に遣はしければ沢右衛門大きに悦び、これは思ひ寄らざる仕合せかな。

貴家にあらずば、かかる御恵みに預かることあるまじ。偏に御慈悲の余慶也と悦び推しいただきて帰りける。

鶴千代病死の事付 綾女なげきの事

されば掃部は勝之助の働きにて悪盗の難をのがれ、その領主の褒美に預り、祝気之に過ぎずといへども、長子・鶴千代の病気次第に重ければ大に心を痛め、医療さまざま手を尽くし諸神諸仏へ祈念すといへども、そのしるしなく、鶴千代、今年十五歳、常に文学を好み、年には過ぎて発明なれば、掃部夫婦の寵愛深かるに日に増して頼み少なく見へければ、母綾女は病人の枕をはなれず介抱せられけるを、病人鶴千代、心にかかりしや母の手を取り苦しげなる気色にて、母上深く御嘆き下さるまじ、この年月の御厚恩を蒙りし事海山の如し。

父母の御養育にてかほどまで成人せし上は何卒本復して孝を尽くし、御心をも慰め奉らんと思ひしに、定まる寿命は神仏の御力にも叶わぬ事にや、顔淵の如き聖賢の人も父母に先立ちたまふと論語に見えたり。

又、小式部十一の時大病にて心細く見えければ、父、保昌、母の和泉式部、枕の左右に座し、本復なからんを察し嘆き悲しまるるを小式部大病ながら、一首の歌を詠みける。

      いかにせん 行くべき方も思ほへず
                親に先立つ 道を知らねば

かく詠じて涙を浮めければ、天井に感ずる声、風の如く聞こえしが、病人忽ち平癒せり。これ偏へに神明の御加護ならんと悦び思ひしに、天命限りあるにや、それより三年を過ぎず、十三歳と申すに終に身まかりしと聞こえし。

かかる事の候へば、われら若し相果て候とも定業と思へば心にかかること候はず、ただ先立ちしあとにて父母の御嘆きたまはん事こそ黄泉路の障りともなりなん。

これまで限りなき御恩を受けしばかりにて、露ほども恩を報じまゐらせず、このまま世を去らば不孝之より大なるはなし。わが如き言ふ甲斐なき不孝の子はありて益なしと思し召し、必ず御嘆き下さるまじ。

弟、喜代若はわれと違ひ、身体聖固にて心も功に見え候へば、父母の御力ともなり候へと、両眼に涙を浮かべせん方なげなるを見て、綾女涙に咽びながら、側なる助次郎が妻に、これきき候へ、重き病なるに、わが身の苦痛をば厭はず、母の嘆かん事をいとひ練むる心の不憫さよ。

この子は幼きより弟喜代若とはちがひ、心やさしく、成人の今まで母が側をはなれず、明暮学問を好み、われら夫婦に事へること手足の如く、親孝行を大切と信実に道を守りしに、かく大病に身を苦しめ頼み少なくなり行くは、神も仏もなきなりと、臥し転びてぞ歎かるる、心の内ぞあはれなり。

病人側なる者に、弟を呼び申せと也。喜代若、枕元に座し、兄の病を問ひければ重き枕を少しあげ、ようこそ尋ね候ぞ。いかに喜代若、聞き候へ。われらこの度重病取り結び、父母の御世話を蒙ること限りなけれども、薬力のしるしもなく、身体日々に衰へ心細ければ、全快覚束なく思ふなり。

われ若し相果てなば、父母の御力とならん者は其方ばかりぞ。されば常に申聞けし事を忘れずして、親孝行の道懈ることなかれ。御側を去らず、手足の如く御用をきくべし。親に背く者は人にてはなきぞ。

又、その方常に武芸を好む。尤も父の御許しあればこれもあししと言ふにはあらず。随分油断なく稽古すべし。さりながら武道を好む者は、事により身を果たすほどの大事など起こるものなり。常々用心こそ肝要なるべし。

たとひいかなる堪へがたき事ありとても堪忍の二字を忘れず、身の危きに近よるべからず。身体髪膚父母に受けたれば、そこなひや傷(やぶ)らぬを孝の始めとすとは孝経の教なるをや。父母御存命のうちは、身をわが物とは思はず親の物と思ひ、心のままになすべからず。

されば唐土魯の国に下荘子と言ひし人は、天下に名を得し勇士なりしが、母存命の中に戦場に出でて三度逃げたり。母卒去して後戦場に出で敵の堅陣を破ること三度、その度毎によき大将の首を得ること三甲、かくて魯の将軍に見(まみ)えて曰く、始め三度逃げたるは、老いたる母いますが故也。然れども、われ之を恥とす。今、母没しぬ、由ってその恥を雪ぐなりと申せしとかや。

汝もこの心を忘れずして身を大切に、孝行の道をおこたることなかれと言ひければ、弟・喜代若始終をきき、兄の顔の痩せ衰へたるをつくづくながめゐたりしが、幼き心にも哀れとや思ひけん涙を流し打ちしをれたる有様を見、その方に言ひ置くこと、此の外になし。

母上の事、かへすがへすも頼むぞと言ひ終り十五と申すに、花の粧ひ衰へて無常の煙と消えにける。之をきく母綾女の心思ひやられてあはれなり。

綾女わずらひの事付 仏法信仰の事

落花枝に帰らざる如く、行きて再びかへらざるは冥途黄泉の道なるべし。

鶴千代若年にして発明すぐれければ、両親の寵愛深かりしに、定命限りあるにや、十五才と申すに、優艶の姿忽ちに野辺の煙と消えぬれば、ただ白骨となりにける。

父、掃部の歎き一方ならず、別して母綾女は常々何事によらず情け深き生得なるに、愛しの病人介抱に疲れし上、歎き深く食もすすまず、鶴千代追善のためにや一間に引き篭り、唱名念仏の外他事なし。

助次郎夫婦もその心を察し、あはれ尤もとは思へども、若し深き歎きに病気などいたされてはあしからんと思ひ、気を引き立て慰めんため、夫婦もろ共諌めけるは、愛子の御別れ諦めたまひ難しとは察し候へ共、世間には五人七人の子を失ひし者例(ためし)多し。

されども子の為に親の嘆くは死せる人の罪となりて、泣く涙も紅波となりて行く道を塞ぐとかや。

御追善と思し召したまはば御心あきらめ、外の慰みにて気を晴らしたまへとすすめければ、綾女涙をおさへ、よくこそ気をつけたまはり候ぞ、さりながら、われ子を失ひし故煩ふにあらず、生死は人間の常なり。哀別離苦は仏ものがれ給はぬにや、釈尊も羅暖羅尊者を失ひ、孔夫子も鯉魚を先きたてたまふなり。

権者といへども人界の有様かくの如し。況や末世の凡夫をや。八苦の娑婆の勤めなれば、会者定離をわきまへずして驚き歎くは愚痴なり。何事も今生のみのことにあらず、皆過去世よりの因縁なり。されば、二條院讃岐の歌に

          憂きもなほ むかしのゆゑと思はずば
                   いかにこの世を うらみすてまし

されども哀傷の捨て難きは凡夫の習ひにや、和泉式部の娘、小式部を先きだて嘆きかなしみける折ふし、上東門院より年頃たまはりける絹を無きあとまでも送りたまはりしに、小式部の内侍と書きつけられたりけるを見て、涙の中にかくぞ詠める

          もろともに 苔の下には朽ちずして
                    埋もれぬ名を 見るぞかなしき

また大納言為家郷、寵愛の姫を失ひたまひ、かの供養の願文の奥に

          あはれげに おなじ煙を立ちそはで
                    のこる思ひに 身をこがすかな

又、かたみにとどめられし髪を以て梵字に縫い供養したまひて
   
          わが涙 かかれとてしもなでざりし
                    この黒髪を見るぞかなしき

子を失ふ者われ一人にあらず、何とて深く歎き候ふべき。されども仏に帰依し奉ること真禅御坊の御教化にあづかりしより、心に忘ることなし。

伝に曰く、真禅法印は宿南常陸之助の妾腹なりしが、若年の頃より武をきらひ出家を好み光明寺にて剃髪し、成人の後、叡山にのぼり、時の碩徳・隆尭法印に従ひ顕密兼学の宗匠なりき。

しかれども、宿縁内に催しけるにや、浮世を厭ひ離るべき思ひ深く、名利の学文を捨て浄土往生の願、ねんごろなりしが、その頃、鎮西派の大徳・向阿上人の従弟・聖阿上人と親友にして、ひたすら念仏を行じ一向専念の勤め怠らず、もとより閑所を望み、後には宿南の荘にかへり光明寺に隠居せり。

その隠居せる所、庵屋敷と号し、今にその地名ありとかや。掃部の居宅、遠からざれば、内室これに帰依し、念仏信仰せしとなり。

掃部壮年の頃は心あらあらしく仏法を嫌ひしが、綾女折々すすめられしにより、後には掃部も法印に帰依し仏法に入りしとかや。

とりわけ綾女は五障三従の罪深く、たまたま霊場ありても女人禁制にて行くこと叶はず、身を憐みましますは阿弥陀仏なり。ひとり口劫に思ひをめぐらし、兆載永劫の御修行を六字名号の御名としてたまひ、この号名を唱ふる者は女人悪人の隔てなく、一期守りて命終の時必ずわが国に迎へとらんとの御誓願なるが故に、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨とあり。

また、一念弥陀仏即滅無量罪ときく時は、わが如き罪深く愚か者はこの外にたよるべき方なしと、度々御教化を蒙りし故、念仏懈怠なく唱へ申すなり。たとひ身体堅固の者たりとも何時頓死せんもはかり難し。
身体は芭蕉の如く風に従って破れ易しとかや。

されば鎌倉の右大将の時、由ありげなる女房、櫻の花の枝を多く侍女に持たせ御門の前を通りければ、頼朝卿御覧じて

           残りなく 手折りてぞ見るさくらかな
                      また来ん春は 何をながめん

と言ひつつ、かはしたまひければ、かの女房とりあえず

           出づるいきの 入るをも待たぬ世の中に
                      また来ん春の たのまればこそ

無常を心にかくる者はかくの如し。頼朝やさしく思し召して宿所を見られけるに、梶原平三景時が妻なりとぞ。われつねづね後生菩提の道こそ大事なりと思ふが故、かくは計らひはんべるなり。
先立ちし子はわが為の善知識と思ふがゆゑ、深くかなしむ心更になし。

あさましき浮世にながらへ、罪に罪を重ねんより、早く火宅の世を出で、われに菩提心をすすむるは誠の孝子といふべし。これにつき方々に物語あり。

われ十六才の年当家へ嫁したるが、七年の月日を重ぬれども一子なし。掃部殿折々子なきことを歎かるる故、われ又人の妻となりて子なきは女第一のきずなりと思ひ、進美山の観音信仰せしに、この菩薩に願ひをかけなば、一子を授けたまはんと百日の間精進し、一千遍の観音経を読誦せしが、お蔭にや二十三才の春、鶴千代をもうけしなり。

されどこの事は夫初めかたがたへも今日まで言はざりし。

鶴千代は観音の使にてわれを佛道に引き入れせんため来りしものならんと思へば、先立ちしことをば嬉しくも尊くも思ふばかりなり。

かたがたの志は喜ばしく候へ共、かくの如く佛に香花を供へ、明けくれ名号を唱ふるこそ、嵯峨や芳野の花盛りを心のままいながむるより十倍まさりし楽しみぞや。

この外の慰みは却って心の苦しみとなるべしとありければ、助次郎夫婦もすすめ申すに言葉なく共に名号を唱へけり。

綾女、病死の事

高木掃部は去冬、長子を失ひ、またこの春は妻女病気に取結び、これも大病にて心元なく見えしかば、かく引きつづきたる災難にその身も身体つかれ、何となく心細く思はれけるが、かほどの時節には弱味を便りに、魔魅の障碍(しょうげ)をなさんこと測りがたし。

伝へきく、昔より物の障碍は名剣の徳を以て払ふことありしと言へり。わが家に二腰の名刀あり。之を床に祭りおきなば祈祷ともならんと思ひ、奥の座敷を清め、机の上に錦の陣羽織を敷き、二口の太刀を祭りける。

太刀は大祖父・信季、脇屋刑部卿より軍功の賞により拝領せしなり。この太刀三条宗近が作にて二尺四寸、勝れし名刀と聞こゆ。

又、護り刀は表米親王より日下部の家に伝はりし短剣なり。之は天国の作にして世上に稀なる刀なり。大祖父・信季兄弟立ち別れしとき、その父・朝倉衛門大夫広高、二男なれども掃部之助の義心を感じ、家に伝はりし守り刀なりとて譲りける。

この二品の太刀刀と錦の陣羽織は、祖父・信豊牢人せし時まで身をはなさず、今の掃部に至るまで伝来せし宝なり。掃部は心細きままに、用事の隙には妻女の病間へ見舞ひ、心を慰めんと四方山の物語などせられけれども、内室は余のことに心を移さず、只一筋に浄土往生の為め、念仏の外他事なく、一向専念の勤め懈らざれば、掃部その心を感じ、其の方は誠に世界第一の宝を得られたるものかな。

それ人界のありさま貴賎の差別なく、盛衰の顛倒せること、たとへば浮雲の如し。三界無安なることを察すと言へども、真実菩提心を起す人稀なり。其の方は、かく仏法に入りしことの浦山しさよ。われもその心なきにあらねど、諸事に紛れて何となく浮世の事に隔てられ、等閑に日を送るこぞ本意ならね。

かかる病の床にありながら、寸暇も怠りなく勤行せるこそ奇特なれと、涙を流し賞美せられければ綾女この詞をきき重き枕をあげ、うれしくものたまふものかな。去んぬる夏頃より、引き続きたる災難によろづ心を痛めたまはん。

われら息災にて御心をも慰めまゐらせ、御世話申してこそ御身の友ともなるべきに、鶴千代が憂ひに引き続き、かく病の床に臥し、数々御世話になるのみか、御心をまで苦しめまゐらすことの悲しさよ。

われ唱名専念の行を勤むるも、弥陀の名号は末世の為めばかりにもあらず、今世の利益深しときく。されば圓光大師も現当二世の祈祷には弥陀の名号にまさるはなしとこそ、のたまひしぞや。

われ寿命尽きずば快気してながらへん、定業ならば極楽往生の願ひとすべし。とにもかくにも、わが身は弥陀に任世奉り、大慈大悲の御本願にすがり無量の光明に身をつつまれ、変成男子の願を遂げ、弥陀の浄土へ往生せんと仏の御来迎を待つばかりなり。

われ若しなくなり候ふとも、かへすがへす御嘆きたまはり候ふな。妻子は衣服の如しとは元徳の言葉なるをや。又、石瓦の如しとも言へり。われ世を去らば早く心ばえよき後妻を迎へたまへ。

われにまさりて勤めなば今の物思ひは自然と忘れたまふべし。由なき事に心をいため、わずらはせたまはば、喜代若が難儀となるべし。御保養を専らに心慰めたまへ。

掃部は妻女の心底あはれに思ひ、両眼に涙を浮かめながら、人病ふとて死するに定まりたる事なし。御身こそわれらがことを案じずして、神仏の御加護にて早く全快したまはり候へとなり。

かくて二月もすぎ弥生も半ばになりけれども、掃部の家は静かに物さびしく、四方の山の櫻今を盛りと見ゆれども、家内にながむる人もなく、綾女は日に増し身体衰へ、頼み少なくなるといへども、唱名日課は懈らず、日数を送りける程に、掃部、助次郎心をいため、神仏への祈願、妙薬等種々に手を尽すといへども、定業のがるる事のならざるにや、宝徳二年庚午の三月、歳三十八才にて終に身まかりけるとなり。

婦人にはめづらしき賢女なりしが、四十路をも待たず世を去りければ、掃部は言ふに及ばず、家内の男女なげきかなしみ、類門隣家に至るまで惜しまぬ者はなかりしとぞ。

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