豊岡市の城

瀬戸の台場(せとのだいば)

豊岡市瀬戸小字鳥が鼻 <城所在地図・豊岡市の1>

『豊岡誌(下)』に次のような記録あり。

「文久2年(1862)5月23日、豊岡藩々議、十一寸半干嚢砲を津居山に備え柘榴弾、散弾各三十五個を貯え、一貫砲を瀬戸、気比に備え各々鉛弾三十、鉄弾十、散弾三十を貯え、和田垣大記に命じて之を監せむ」。

文久2年は生麦事件がおこり、翌3年には下関海峡で長州藩がアメリカ、フランス、オランダ艦船を砲撃し、薩摩でもイギリスの軍艦を砲撃して、尊皇攘夷に沸き返る時代である。

津居山と気比にすえられた場所は、詳らかでないが、瀬戸のお台場は、現在、豊岡市役所港出張所北側の岡の上である。

高城(たかしろ)

豊岡市気比 <城所在地図・豊岡市の2>

気比の南西に白山と並んでいる山が高城で、その中に鞍掛山がある。高城山は標高180メートルの独立した山城である。
『神美村誌』に出典を広峯文書として、次のように記載されている。

「湊川の戦いで南軍が敗けて楠木正成が戦死した後にも、なお但馬北部には南軍に味方する武士がいた。足利尊氏は今川頼貞に討伐を命じた。頼貞は伊達道西、伊達義綱を従え、延元元年(1336)但馬北部の南軍を攻略し、枚田(5月3日)、津居山の気比(5月16日)の戦いに勝利を収めた、云々。」

ここに「津居山と気比」とあるも、津居山は津居山湾一帯の総称であり、気比は現在の気比部落一帯を言うと考えられる。そして、南軍として抵抗したのが高城の城主であったのではなかろうか。城主の名は伝わっていない。

また、一説には、寿永の昔、源平の合戦の直後壇ノ浦の戦いに敗れた平家の侍大将、越中治郎兵衛盛継が気比に住みついた事にまつわる伝説などもある。

その伝説の一つとして、高城のふもとの石山のかたわらに毛彫りの仏像数体と舟形が刻まれており、平家の侍大将悪兵衛景清が刻んだといわれている。

この山城頂上部は二段の曲輪からなり、周囲に土塁をめぐらして攻めるに難く守るに易い城であったようで、古老の言うには数十年前には土器の破片や焼米が出たという。今では雑潅木が生い茂り踏査しても不明である。
山全体は安山岩からなり、まわりは30度以上の急峻な岩山である。

この城の南側は塩谷、北には鎧谷という谷があり、その昔攻防戦のあった時、北側の鎧谷に面した谷間に白米を流したり、白木綿を垂らしたりして頂上には水や食料は充分貯えがあるという智的な守りをしたという事が伝えられている。

鎧谷の入口に1メートル四方の泉井戸がある。ジャガ下(城が下)の井戸といって岩間から噴き出る良質のわき水が出ているが、これが頂上に供給したところである。

なお、翌延元2年にも小俣来全を部将とする北軍は6月21日田結荘城を、ついで妙見之尾、進美寺と軍を進めている。この田結荘は気比の隣接地であり、田結庄氏の居城であったと考えられるが、城の場所は確認されていない。

また、津居山の八幡神社境内(標高50メートル)も、神社裏(北側)に高低差3メートルの堀切り跡などから考えて、砦であったと推定される。

鶴城(つるじょう)別名:愛宕山

豊岡市山本 <城所在地図・豊岡市の3>

  • 時代/永享年間、または弘和年間~天正3年10月
  • 主な城主/田結庄左馬助、田結庄是義

豊岡市内の円山川と六方川の合流点の右岸に屹立する標高115メートルの愛宕山。もとはここを鶴城と呼んだ。円山川を隔てて南側にある亀城(豊岡城・今の神武山)と対象してこのようによばれたのである。

この城は、永享(1429~40)のころ、山名氏が築き、その家臣・田結庄左馬助に命じてこれを守らせたといわれ、また一説には弘和(1099~1103)のころに築城されていたともいわれている。

但馬考によると、「田結庄は本姓平氏なり、代々城崎郡田結庄(豊岡市田結)を領しけるゆえに氏とせり。」とある。その田結庄は、山名持豊に従って嘉吉の乱には京都奉行として赤松満祐討伐戦に加わり、応仁の乱には京都にいて、持豊のふところ刀となって数々の戦功をたてている。

田結庄氏は、この鶴城を居城とすると共に、出石城下にも屋敷をもっていた。出石町内に田結庄の町名が残っているのがその場所である。

この田結庄氏は、左近将監是義の代になって、垣屋氏の勢力範囲である美含郡を併合しようとしてねらっていたようである。このため垣屋一門との間に、常にいざこざが絶えなかった。

天正3年(1575)6月13日(一書には5月3日)山名祐豊は長谷(豊岡市長谷)で、かきつばた見物の宴を開いた。宴たけなわのとき鶴が峯城(日高町観音寺)城主・垣屋光成の家臣が鉄砲で鳥をうったところ、その流れ弾が田結庄是義の幕の中に落ちた。是義は光成の家臣を直ちに捕らえて殺してしまった。光成は復讐決意を胸に秘めた。

同年10月15日、光成は宵田(日高町)城主・垣屋忠顕(一書には豊知とも)、轟(竹野町)城主・垣屋宗時らとはかり、田結庄の居城で栗坂主水の據る海老手城(豊岡市滝)を攻めた。是義は部下を派して反攻したが、かえって宗時のために敗られた。

ついで是義の軍は、光成、忠顕らの軍と野田(豊岡市宮島附近)で対戦し、再度敗れて鶴城にしりぞく。光成らは勝に乗じて城を囲み、是義は力尽きて山腹の正福寺に入って自害した。一書に、この戦闘は垣屋豊続、(亀崎城、または亀城、後の豊岡城と考えられる・・・の城主)が養寿院(豊岡市岩井)に参詣中、田結庄是義に囲まれて割腹した。その子、光成大いに怒り、豊知、宗時とはかり挙兵した。とも描かれている。

城は山頂部で三つの曲輪に分かれ、円山川に面した西の曲輪が最も広く2100平方メートル(70メートル×30メートル)あり、現在は愛宕神社がまつられ、鐘楼もある。(注・元和5年5月、金剛寺ノ主僧、盛長祠を営ミ愛宕ノ神ヲ祀ル。ココニ於テ愛宕山ノ称初テ起ルト云フ『三江誌』)

中の曲輪は東、西の曲輪より3~4メートル下って450平方メートルの広さ。東側の曲輪が最も高く、円形で270平方メートルの広さをもち、南側は15メートルにわたって土塁も残っている。

東曲輪の東側は、深い切り通しを経て、100メートル級の尾根につづいている。西側の円山川に面した突端部(現在妙見堂がある)と、北側の貴布弥神社の上には、それぞれ出丸が構えられている。

なお、但馬考には「田結庄在城の時は、その家中は森、山本、火撫三村に住し、町家は舟町、宮島、六地蔵に住せし由」との記事も見られる。

南谷城(みなみだにじょう)

豊岡市栄町 <城所在地図・豊岡市の4>

豊岡市内、栄町部落の東側の山頂(約100メートル)に平坦地あり、城ノ谷などの字も残されている。城主、時代など不祥。

樋口ノ城(ひくちのじょう)

豊岡市庄境 <城所在地図・豊岡市の5>

樋口ノ城は、豊岡市庄境部落の一本松住宅団地の東側、通称天王山と呼ばれている山頂(100メートル)にあり、西側と南、北の三方の尾根部分には堀切りも見られる。

三江誌に「樋口城址ハ天王山ノ西、尾鼻ニ在リ、相伝フ樋口荘ノ領主樋口某、築テ之ニ居ルト。然レトモ事蹟詳ナラス」とあり。

河谷城と衣笠山城(こうだにじょうときぬがさやまじょう)

豊岡市河谷、中谷、三宅 <城所在地図・豊岡市の6>

河谷城は、豊岡市河谷部落と中谷部落の境界上の山稜の突出部、標高200メートルのところにあり、豊岡盆地を一望におさめることができる。

頂上付近は一部を雑木林におおわれていて断定し難いが、西側斜面に向かっては三層の曲輪で構成されている。頂上部は、28メートル×15メートルの矩形状で本丸を形成し、その本丸の西側が1メートル上って11メートル×5メートルの広さで天守を形成している。本丸の東西両端は堀切りになっている。

東側は、ゆるやかな尾根つづきで、その尾根を東側に250メートル進むと穴見谷の三宅部落と、河谷、中谷の三部落の分水界である衣笠山城に通じる。
衣笠山城は標高214メートルの急峻な山頂にあり、南側には直線距離1600メートルのところに、三開山が対峙している。
 
山頂部の広さは、およそ600平方メートルの円形。南と北の尾根に一ヶ所ずつと、河谷城につづく西側尾根には、小規模ながら一つの曲輪と、それをはさんで両側に堀りが構成されている。昭和48年にはここにテレビ中継塔が建てられた。

衣笠山城は山名の家臣・茨木甚太夫の據った市場城の見張台といわれるが、地理的に見て三宅主計の居城といわれる穴見城に当るのかも知れない。
河谷城については、河谷部落、字河が谷側に、古井戸があったこと、中谷部落側に字殿替の地名が残されているほかに口碑も残っていない。しかし、地形的に見て、河谷城と衣笠山城で一つの城と考えられる。

三開山城(みひらきやまじょう)

豊岡市大篠岡、木内、駄坂、香住 <城所在地図・豊岡市の7>

豊岡市内の豊岡盆地と穴見谷の間に円錐形の端正な姿を見せている三開山の頂上(201メートル)に築かれている。
この三開山城とその周辺では、近世に至って3~4回の戦闘が行われている

(1)
建武の中興なかばにして、南北朝に分かれて血みどろの戦闘がくりひろげられることとなるが、但馬国守護太田守延の滅亡のあとの但馬も、同様であった。

但馬の南軍は、これを統率する大将の派遣を越前(福井県)の金崎城にいる新田義貞に求める。
義貞は、わが子新田城之介義宗を三開山城に入らせ総指揮をとらせた。

延元二年、足利直義は、小俣来全を遺して但馬、丹波の南軍を討たしめた。この戦闘で三開山城や妙見山城は落城し、義宗は越前の杣(そま)山城に敗走してしまった。ただ、進美寺城(日高町)の南軍は、その後二年間、よく弧城を守ったという。

(2)
そのあと、三開山城は、再び南軍の手に陥ちたと考えられるが、そのころ足利方に組して因幡、伯耆、丹波に勢力をのばしていた山名時氏は、康永3年(1344)1月、三開山城を攻め陥し、この城に移り、自ら但馬守護となった(「妙楽寺文書」)

(3)
さらに下って山名時氏は京都の戦いで一敗地にまみれ、但馬を通って因幡まで退却する。このため、三開山には、三たび南軍の旗がひるがえる。

その南軍の首領が誰であったかは知る由もないが、この三開山城を文和2年、養父郡に本據をもつ伊達三郎が攻めたてた。

4月6日には三開山下の篠岡で戦闘が開始されている。
この戦いは8ヶ月の長い間、断続的につづいた模様で、7月4日からは六方田圃で戦われ、その間7月26日には大洪水があり、この洪水に乗じて南軍は数百隻の舟で奇襲をかけ、追いつめられた北軍は山中に逃げ込み、伊達三郎も肩に矢傷を負って戦線をしりぞくという一幕もあった。しかし11月28日には南軍はついに敗走した。(『伊達文書』)

(4)
その後の三開山城の盛衰は、よくわからないが、天正8年の羽柴秀吉の第三次但馬征伐で、落城した。との伝説もある。

城の構成

山頂(本丸)は、東西35メートル、南北15メートルの楕円形の平地。本丸から4メートル下がって、輪郭式ながら東西に細長く二ノ丸があり、さらに西北側には階段状に四層の曲輪、西南にも一つの曲輪。

東側には二ノ丸から20メートルばかり下ったところに二ヶ所の切通しが設けられ、それから東側は馬の背のような尾根ながら、ゆるやかな稜線がつづいている。

どの曲輪にも石垣は見当たらず、おそらくは築かれなかったと考えられる。

大篠岡の中腹、標高100~130メートル付近には、美事な石垣の残る元の瑞峰寺屋敷や素朴な布石垣の残る千畳敷屋敷をはじめ、武家屋敷といわれる場所が残されている。

駄坂側や香住側にも出丸と思われる場所、香住側にも武家屋敷といわれる場所がある。

なお、唱和25年ごろ、六方川の改修工事中に、木内の川筋で武具をつけた一体の人骨を掘り出したという。

いつの時代の戦いで戦死したのだろうか。その人骨の中から壷に入った砂金が出て来たが、その砂金は京都の古物商で数万円で換金され、飲み代に使われてしまったという。

小出陣屋(こいでじんや)

豊岡市倉見字石谷 <城所在地図・豊岡市の8>

出石藩主・小出大和守吉英の三男、小出宮内英本は寛文6年(1666)に倉見字中地の古屋と称する所に分家し旗本となった。

享和3年(1803)に字石谷に移転した。これが陣屋で、13代小出邦三郎秀発まで存続したが、現在は大松一本、石垣、堀を残すのみになっており、背後に妙見堂がある。(『神美村誌』)

上鉢山城

豊岡市上鉢山字城山 <城所在地図・豊岡市の9>

上鉢山部落の裏山(58メートル)にあり、3つの曲輪で構成され、頂上部は約40メートル×10メートルの広さ戦国時代、田和豊後守の居城であったと称せられる。(『神美村誌』)

市場城(いちばじょう)

豊岡市市場字松原 <城所在地図・豊岡市の10>

但馬守護・山名宗全の家臣、茨木甚太夫の居城の跡と称せられる階段状に4~5段の曲輪がある。(『神美村誌』)

穴見城(あなみじょう)

<城所在地図・豊岡市の11>

豊岡市穴見谷にあり三宅主計の居城と伝えられるが、詳細な所在地は不明である。

中郷の城(なかのごうのしろ)

<城所在地図・豊岡市の12>

豊岡市中郷と出石町三木の境界、袴間峠の南側の山上120メートル地点にあり、中郷部落では通称城の山と呼び、三木部落側からは、これに通ずる谷を城の谷と呼んでいる。

未確認ながら、数段の曲輪で構成された頂部には100平方メートル程度の広場があると聞く。年代、城主など不詳。

伊賀谷城(いがだにじょう)

豊岡市伊賀谷小字城山 <城所在地図・豊岡市の13>

豊岡市伊賀谷部落の北側、三柱神社の裏山一帯を字城山といい、標高200メートルの山上が城山と言われている。築城年代、城主など不祥。

森津城(もりづじょう)

豊岡市森津 <城所在地図・豊岡市の14>

森津部落の字若桑と奥中谷の境界線上の通称大ナル、(標高110メートル)にあり、伊賀谷高原より南側に分かれた尾根を分断して、深さ4メートルの切り通しがあり、それから南側に極めて狭長な二層の曲輪から構成されている。

上の曲輪は巾12メートル~4メートル×長さ30メートル、約240平方メートルの広さで、東側と北側に20メートルにわたって土塁が残されている。
二層目は巾7メートル~4メートル×長さ40メートル、約220平方メートルの広さの極めて狭長で、しかもかなり傾斜をもった曲輪で、その先は深さ2メートルの切り通しを経て森津田圃方向に急傾斜となっている。

築城年代、城主など不祥。

森津部落の字若桑と奥中谷の境界線上の通称大ナル、(標高110メートル)にあり、伊賀谷高原より南側に分かれた尾根を分断して、深さ4メートルの切り通しがあり、それから南側に極めて狭長な二層の曲輪から構成されている。

上の曲輪は巾12メートル~4メートル×長さ30メートル、約240平方メートルの広さで、東側と北側に20メートルにわたって土塁が残されている。
二層目は巾7メートル~4メートル×長さ40メートル、約220平方メートルの広さの極めて狭長で、しかもかなり傾斜をもった曲輪で、その先は深さ2メートルの切り通しを経て森津田圃方向に急傾斜となっている。

築城年代、城主など不祥。

新堂城(しんどうじょう)

豊岡市新堂 <城所在地図・豊岡市の15>

豊岡市の新堂、栃江、宮井三部落の境界標高215メートルの山上にあり、新堂部落の国道上からは、3~4段の曲輪と両側に切通しらしきものが遠謀できる。山頂は約200平方メートルの広さ。年代、城主など不祥。

海老手城(えびてじょう)

豊岡市滝、森津 <城所在地図・豊岡市の16>

豊岡市滝と森津部落の境界、大浜川のすぐ南側の標高79メートルの山上にあり、山頂の広さはおよそ200平方メートル、一部に石垣の面影を残すという。
この城は鶴城(豊岡市日撫)城主・田結庄是義の属城として栗坂主水が居城したが、天正3年10月の田結庄と垣屋の戦乱に際し、轟城(竹野町轟)城主・垣屋駿河守宗時に攻められて落城した。

栗坂主水は戦乱のあと仏門に帰依し、森津、新堂あたりで余生をおくり、死期迫ると知るや墓穴に安座し、鉦を打ちつつ大往生したと伝えられている。
新堂部落の氏神境内の宝きょ印塔は、彼の供養塔といわれている。(『五荘村史』)
なお、森津に「十六なわて」といって、栗坂勢十六将卒が田結庄勢に捕らえられ、打首にあった所とされている場所がある(『五荘村史』)が、十六とは条理制遺構の坪の名称である。

亀が崎城(かめがさきじょう)

豊岡市福田、森津 <城所在地図・豊岡市の17>

豊岡市福田と森津部落の境、通称亀が崎の標高65メートルの山上にあり、城とはいえ、狭長な尾根を巾10メートル程度に地ならしし、長さ140メートルの両端を南、北両端に高低差2メートルばかりの掘り切りを設けただけで、中心部には円墳がそのまま保存されているという。極めて簡単な構えである。

しかも、その構えの北側の尾根つづきで、最も要衝地と考えられる大浜川の湾曲部に面する突端部には、何らの構えも見られず、円墳二基があるだけである。

『但馬考』に「因幡垣屋氏系図として、但馬垣屋の初代・駿河守重教は、関東より山名時氏に従って但馬に入り、奈佐荘亀崎城に居る」とかかげ、この亀崎を「今の豊岡なり」と注記しているが、奈佐谷開口部のこの亀が崎も、地理的に見て豊岡盆地の北西部をおさえる要衝の地であり、重教がここに砦を構えたとしても故なしとせず、参考にかかげる。

豊岡市福田と森津部落の境、通称亀が崎の標高65メートルの山上にあり、城とはいえ、狭長な尾根を巾10メートル程度に地ならしし、長さ140メートルの両端を南、北両端に高低差2メートルばかりの掘り切りを設けただけで、中心部には円墳がそのまま保存されているという。極めて簡単な構えである。

しかも、その構えの北側の尾根つづきで、最も要衝地と考えられる大浜川の湾曲部に面する突端部には、何らの構えも見られず、円墳二基があるだけである。

『但馬考』に「因幡垣屋氏系図として、但馬垣屋の初代・駿河守重教は、関東より山名時氏に従って但馬に入り、奈佐荘亀崎城に居る」とかかげ、この亀崎を「今の豊岡なり」と注記しているが、奈佐谷開口部のこの亀が崎も、地理的に見て豊岡盆地の北西部をおさえる要衝の地であり、重教がここに砦を構えたとしても故なしとせず、参考にかかげる。

丸山のろし台(まるやまのろしだい)

豊岡市栃江小字丸山 <城所在地図・豊岡市の18>

豊岡市栃江部落の裏山、標高64メートルの山の上にあり、現在は果樹園となっている。
頂部は30メートル×18メートルの楕円形の台地であるが、これをのろし台と見なしたのは、この丸山の北側の谷を城ノ谷と言いながら、その周辺には、丸山以外に城の構えが見られないことからである。

丸山から尾根づたいに1キロメートル北西に進めば、新堂城に達す。なお、丸山のろし台は、巨大な円墳の頂部を地ならしして築かれたものと考えられ、昭和初期には石棺の一部が発掘されている。

福田城(ふくだじょう)

豊岡市福田小字杉崎 <城所在地図・豊岡市の19>

標高50メートルの山上にあり、山頂は、長さ40メートル、広さ600平方メートルのひょうたん形の台地。奈佐谷に面した西側には40メートルにわたって土塁も残っている。この山頂から北側、東側、南側の三方にそれぞれ小さな曲輪が設けられており、南側の尾根つづきには切通しもある。築城年代、城主など不祥。

高屋城(たかやじょう)

豊岡市高屋字岩屋 <城所在地図・豊岡市の20>

豊岡市の高屋、福田、岩井の三部落の分水嶺136メートルの山頂が高屋城であり、岩屋の城とも呼ばれている。頂上は200平方メートルの広さで、三層の曲輪をもち、土塁や堀切りなどもよく残存しているが、時代や城主など不祥。

半径500メートル以内には、雅成親王ゆかりの地といわれる光明寺跡(高屋小字西ノ宮)や天正3年、垣屋光成と田結庄是義の攻防の際に焼かれた養寿院(岩井小字大原)の跡などがある。
なお、高屋部落字天王、通称金山、現在稲荷神社が祀られている山頂は城跡と考えられる。(元・豊岡高校校長・岩佐修理先生の言)すなわち稲荷社本殿うしろの一段高い部分に円墳があり、そのつづきの一段高い展望台は天守にあたる。高屋城の出城と考えられる。

豊岡市の高屋、福田、岩井の三部落の分水嶺136メートルの山頂が高屋城であり、岩屋の城とも呼ばれている。頂上は200平方メートルの広さで、三層の曲輪をもち、土塁や堀切りなどもよく残存しているが、時代や城主など不祥。

半径500メートル以内には、雅成親王ゆかりの地といわれる光明寺跡(高屋小字西ノ宮)や天正3年、垣屋光成と田結庄是義の攻防の際に焼かれた養寿院(岩井小字大原)の跡などがある。
なお、高屋部落字天王、通称金山、現在稲荷神社が祀られている山頂は城跡と考えられる。(元・豊岡高校校長・岩佐修理先生の言)すなわち稲荷社本殿うしろの一段高い部分に円墳があり、そのつづきの一段高い展望台は天守にあたる。高屋城の出城と考えられる。

宮井城(みやいじょう)

豊岡市宮井 <城所在地図・豊岡市の21>

宮井城は、豊岡市宮井部落から、矢次山の谷に500メートル入った標高162メートルの山頂に築かれた山城である。
山名の部将、篠部伊賀守の居城として知られている。

篠部氏は美含郡篠部荘の長氏の出といわれ、いつの時代に宮井城主となったかは、さだかでないが、文献に見られる事件として次のようなことがある。

(1)大永年中(1521~7)
篠部伊賀守、大谷(豊岡市大谷)城主中沢蔵之助を夜討ちに押寄せ討ち滅して奈佐の庄を一円に押領せり 『但馬一覧集』

(2)天正9年(1534)
訓谷林甫(香住町)の城主長善秀、無南垣(香住町)城主・塩谷左衛門尉と言違いによって正月二十日、此隅山○○御前にて御腹めされ候。次の城大将は奈佐の篠部殿の御舎弟を御すえ被候て、名を三川殿と申し候 『長福寺古記』

(3)弘治3年(1557)
7月、長善秀の子弥次郎、林甫城の塩谷周防守(三川殿)を攻む。・・・・・篠部伊賀守は大軍を率い周防守を救援するが、林甫城は切りとられ、周防守は討死し、伊賀守は引上げた 『長福寺古記、但州発元記』

(4)天正3年(1575)
田結庄是義と垣屋光成との合戦に際し、伊賀守は当初は田結庄を支援し、不利と見て垣屋に屈服す 『但州発元記』

(5)天正8年(1580)
5月、羽柴秀吉但馬に討ち入る。水生城には垣谷、長、塩谷、赤木、大坪、篠部の各将立てこもって抵抗し、ついに落城す。ここにおいて篠部氏も滅亡す。

一説には秀吉の但馬征伐に当たって、伊賀守は藤井伊助を宿南に派し秀吉に通じる一方、自らは水生城に立てこもる。水生城落城後は宮井に帰り恭順していたが許されず、城を討落とされ、伊賀守は白藤神社(豊岡市吉井)前まで逃れ、ここで自害したと伝う。

白藤神社鳥居横に石碑があり、これが篠部氏の墓と安政2年編の但馬新図にも記載されている。

城の本丸は660平方メートルの広さをもち、南側には、二の丸~切り通し2ヶ所~300平方メートルばかりの平地~野垣方向への尾根とつづき、東側には斜面にそって少なくとも9つの曲輪がつくられている。

本丸と二の丸には土塁が残り、三の丸から五の丸の三層には、石塁の名残が見られ、豊岡市内では最もよく原形をとどめる城跡である。

宮井城から東へ500メートル、宮井部落内の秋葉神社の裏山も、6層の曲輪をもち、尾根づたいには2つの切り通しを設けられている。
この砦跡の小字を南殿と呼んでいる。宮井城の出城であろう。

この南殿のほかに谷殿、芳賀殿、平城など、屋敷あとと思われる地名が宮井地内に散在していて、いわゆる所堅固の構えが感ぜられる。
また、宮井城の鬼門に当ると考えられる宮井川をはさんでる北側の山ろくにはお宮があり、熊野権現、大日如来などがまつられており、その北側の山腹には、与作太郎の地名をもつ屋敷らしい場所も見られる。

なお、宮井地内ながら奈佐川の右岸側に小城鼻と称する小山があり、山上は500平方メートルの平地、南側への尾根づたいには切通しもある。宮井城の見張台と考えられる。

岩本砦(いわもととりで)(別名比丘尼城)

豊岡市吉井小字岩本 <城所在地図・豊岡市の22>

標高50メートルの山の突端にあり、山頂は約100平方メートル。
尾根につづく南側には巾10メートルばかりの小さな堀切と土塁が見られる。
また、奈佐谷に面する北、西側は急峻な断崖がつづいている。

築城年代など明らかでないが、地元の伝承では、宮井城主篠部氏より八十石を分け与えられて分家したものとされているので、宮井城の見張台かもしれない。

大谷城(おおたにじょう)

豊岡市大谷字土肥土 <城所在地図・豊岡市の23>

奈佐川にそって、山地の突出部、標高40メートルに構えられた小さな砦である。
砦は二層(小さなものを加えると四層)の曲輪からなり、全体の広さは約300平方メートル。尾根につづく南側には土塁や堀切のあとも見られる。

但州一覧集には「大永年中(1521~27)篠部伊賀守ハ、大谷村ノ中沢内蔵助ヲ夜討ニ押寄セ打滅シテ奈佐庄一円ヲ領ス」とあり、その中沢氏の居城と伝えられる。

小垣ノ城

豊岡市内町字小垣/大谷字竹が花 <城所在地図・豊岡市の24>

豊岡市大谷、福成寺、内町の三部落の境界197メートルの山頂にあり、その山頂には現在は三等三角点が設けられている。

城は東北尾根づたいに三層の曲輪からなり、山頂の広さは約300平方メートル。ここから、およそ100メートル隔てた南西側尾根にも約100平方メートルの曲輪があるほか、尾根づたいに北側、300メートル、標高150メートル地点と南側の内町部落、月出神社の上の山、150メートル地点には、それぞれ小さな砦が構成されており、内町地内には馬場ノ岡の地名も残っている。
年代、城主など不詳。

石谷城(いしたにじょう)

豊岡市内町字中ノ谷 <城所在地図・豊岡市の25>

奈佐谷の奥部、内町、辻、目坂三部落の分水界、標高270メートルの山頂にあり、頂上の広さは約1200平方メートル。その頂上は高低差50センチメートルで輪郭式の曲輪があったと思われる。

南側には、さらに高低差5メートルずつで三段の曲輪があるようだが、現在は全山が雑木と小笹におおわれていて詳細は知り難い。

出石町にある福成寺の伝記によると「矢次山の中腹、祇山にあった福成寺は南朝正平年間に鳥羽村(現在・豊岡市福成寺)の郷士石谷備前と争論し、出石城主山名伊予守時義をたよって出石弘原庄下村花山に移転す」とあり、その石谷備前の居城といわれる。

石屋の砦(いしやのとりで)

豊岡市辻字石屋 <城所在地図・豊岡市の26>

豊岡市辻と舟谷部落の境界、標高100メートルの山上にあり、山頂は約600平方メートルの平坦地で、西側の舟谷字北ノ谷の尾根に向かって小さな三重の堀切がある。

この山上からは奈佐谷の目坂側、河江側及び下流部、(内町、大谷)の三方の見通しができる要害の場所であり、石谷城、目坂城のいずれかの見張台であったと考えられる。

築城年代など不詳。

目坂城(めさかじょう)

豊岡市目坂小字松本山 <城所在地図・豊岡市の27>

標高200メートルの山上にあり、頂上は二つの曲輪によって構成されるが、その全体の広さは約900平方メートル。

城の南端には二ヶ所、北端には一ヶ所の堀切りがつくられ、北端には、堀切りの土を盛り上げてつくられた土塁も残されている。その北側は大岡山への尾根につづく。

築城年代、城主など不詳。

目坂部落内には、屋敷、角屋敷、休場、馬場の地名が残り、小字中島には目坂城主と石谷城主とが争った折の戦死者を葬ったと伝える石塚もある。

岩井城(いわいじょう)

豊岡市岩井小字湯舟 <城所在地図・豊岡市の28>

豊岡市岩井部落と佐野部落および日高町奈佐路のそれぞれの最奥の境界、245メートルの山頂にあり、二層の曲輪で構成され、一ノ丸は100平方メートル、3メートルの小段があって輪郭式に二ノ丸があると聞く。

築城年代、城主など不詳。

現在はこうのとり但馬空港があり、空港建設に当って周辺の山を切りくづして谷を埋め滑走路のための平地を作ったために大きく地形が変貌しているが、岩井城跡は整備され保存されている。(但馬空港の日高町側の駐車場横)

奈佐氏の城

<城所在地図・豊岡市の28>

南北朝時代に養父郡小佐郷の郷士で足利尊氏方の伊達氏の文書によると「延文3年、伊達三郎は奈佐を攻む」とある。

奈佐氏は、古代、但馬に君臨した日下部氏の分かれであるとされており、弘安8年の但馬太田文には、平等院領樋爪庄の下司として奈佐太郎高春の名が見える。

奈佐谷には、庄という地名が残っているが、居城などは不明である。ともあれ、奈佐氏は延文3年に、伊達氏に攻略されておとろえ、さらに文明3年(1471)には戸辺羅(戸牧)山の合戦で垣屋氏に滅ぼされるのである。

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