私のお気に入り|音楽|イヴェット・ギルベール

YVETTE GUILBER
イヴェット・ギルベール(歌手・芸人 1867~1944)

私が、もし誰かに、一番好きな歌手は誰ですか・・・?と、訊かれることがあれば、迷わず彼女の名前を言う事になるでしょう。シャンソンが大好きな私の、御ひいきの歌い手は沢山いるけれど、彼女は特別だからです。
ピアフの素晴らしさ、ダミアの魅力、マリ・デュバの凄み・・・どれとも比べられないもの・・・・それは、一人個人のキャラクターという範疇を越えて、この世に神様が送り込んだ、音楽のミューズだからです。
ミューズというよりは、見た目は、「妖婆」としか映りませんが・・・しかしながら、彼女が、もしいなかったら・・・
その後の華やかなシャンソンの畑の花は、一本足りと咲かなかったに違いありません。
そんなイヴェット・ギルベールについて、少しお話してみようと思います。
(YUUKO)

イヴェット・ギルベールのプロフィール

ファッションモデル~百貨店「プランタン」の売り子~から、1886年“エルドラード”の舞台で、デビュー。1889年、“ジャルダン・ド・パリ”でうたい、1890年、“ムーラン・ルージュ”に出演する。1891年から92年“ル・ディヴァン・ジャポネ”と“オルロージュ”でモーリス・ドネの舞台をつとめて、名声を得る。1895年アメリカ巡業をし、さらに有名になる。
自分の恩師のしていた黒くて長い手袋に感銘を受けて、これを自分のトレードマークにする。この頃、画家のロートレックも彼女を好んで描き、ポスターや、アルバム(1894年、1898年)を献じたりしている。(彼女自身は、スタンランのポスターを好んだらしいが・・。)舞台引退後は講演をしたり<ベル・エポック>についての、素晴らしい文章を残している。

イヴェット・ギルベールの歌主な曲目のご紹介

辻馬車(Le Fiacre)

レオン・グザンロフ(1867~1953)の作品。哀れにも滑稽なコキュ(寝取られ男)の物語。1893年、フェリシア・マンという女性歌手が創唱した曲ですが、二年後、ギルベールが歌い、大ヒットとなり、彼女の最大の持ち歌となりました。明るく軽快なリズムですが、歌詞の内容は、フランスのコントそのもので、浮気された上に、妻と愛人の乗った辻馬車に引かれて殺されるという、コキュを主題にした残酷物語です。「HOP LA !」(ホップラ=はいしっ)の明るい掛け声が、ブラックなユーモアと風刺に満ちて響きます。そのうえ、彼女は、轢き殺された死体を見に降りてこう叫びます。

「Chouette,Le’on,c’est mon mari!」
(素適!レオン、あれは主人!)

ここでも、ギルベールは、歌うというより、一人芝居を演じているように、臨場感たっぷりで、明るい毒を撒き散らしています。

ブートン夫妻とブーダン夫妻(Partie Carree Entre Les Boudin Et Les Bouton)

二組の仲のよい夫婦の、四角関係(パルティ・キャレ)を歌った、コミカルな曲。マルセル・デリウス作詞・作曲。
辻馬車は三角関係でしたが、もうヒトツ増えて、こちらは、四角関係です。(^.^)名前もソックリな仲良し同士が、お互いの奥さんと浮気をして、それぞれに子供が生まれます。全編韻を踏んだ早口言葉のようで、楽しいリズムに溢れています。職業もブーダンは繋がったボタン(ブートン)の販売。ブートンはソーセージ(ブーダン)販売。
この四角関係は、お互いに、ばれているのかいないのか、不明のままで、爆弾を抱えたまま付き合いは続きます。ある晴れた日、「俺は、親父になるよ!」とブーダンが告げると、ブートンは「Ah!ah!c’est e’patant re’pond Bouton」(おお、そいつは素適)と答えるのですが、その言い方が実に残酷な後味を伴います。
こういった、セリフを叫ぶ時のギルベールは、老獪な人間描写が、気味悪いほどにリアリティをもって迫ります。

老人讃歌 (L’eloge des vieux)

僧侶であったシャンソン作家兼歌手、アベ・ド・ラテニャン(1697~1779)の詩に、ギルベールが作曲し、創唱しました。若い人より、老人の方がいい・・・という内容ですが、そんなに単純な意味そのままではありません。
わざとらしい優雅な言い回しの中に、逆に隠微な悪意が込められており、ギルベールの持ち味が冴えます。

こんな風に愛されるなんて(Quand on vous aime comme ca)

私のお気に入りの曲です!!
シャルル・ポール・ド・コック(1794~1871)の詩にギルベールが作曲。大成功を収めた曲で、ちょっとポルノグラフィックな内容ですが、ここでのギルベールは、最高にのって歌っています。美男子のラウールを自分のものにした女が、彼の、嗜虐的な愛し方を、時に悲鳴とも、ため息とも取れる嬌声を交えながら、延々とのろけ続けるのです。
どんなに淫靡な嬌態を歌っても、それが、完璧なまでに一人芝居として演じられ、同時に、その演出家のようなギルベールの冷めた視線が一方には感じられるため、すこしもうんざりさせられる事がありません。
声の調子の変化、語り口調の変化、舌を巻くほどの芸達者ぶりは、むしろ爽やかなほどです。
この曲には、ギルベールのもっとも彼女らしい趣向が満載です。

「こんな風に愛されるなんて」

詩・シャルル・ポール・ド・コック   曲・イヴェット・ギルベール

イヴェット・ギルベールの《こんな風に愛される時》

とっても幸せなの私、ぼうっとしちゃいそう。
それに、この恋は、冗談事じゃないの。
美男子ラウールを征服したの。
愛されて、得意なのよ。
彼氏のおかげで分かったわ。
絶望や、涙や、その他いろいろと、
私を窓から放り出そうとしたこともあったわ。
何て嬉しいんでしょう。
こんな風に愛されるなんて。(くりかえし)

始めて、私にやさしくしてくれたとき、
こわくなっちゃった
目玉をギョロつかせるんですもの。
そのときから
何かしてあげると、
あとがつくの
胸にもアザができたわ。
彼がのぼせたときは、逃げるってことも度々よ。
だって私を愛するとき、彼って
スカートやドレスをちぎりそうな勢い。
何て嬉しいんでしょう。
こんな風に愛されるなんて。(くりかえし)

抱き上げられたら
逃げられやしないわ。
ぎゅっとしめつけられるんで
息もつけないの。
ほっぺたを、
軽く叩かれても
たちまちはれてしまうわ。
手をおさえられると
ねじあげられたよう。
指に触ったらつぶされたかと思う。
私にキスする時は
噛み付くよう。
何て嬉しいんでしょう。
こんな風に愛されるなんて。(くりかえし)

彼が
散歩に連れて行ってくれる時は、
裏通りの
埃っぽい道を歩くの。
誰かが通ると、ラウールはごきげんななめ。
私は大急ぎで
目を伏せてなきゃならないの。
もし振り返ろうものなら、
ごらんなさいよ、
私をつついて、ささやくの
〈お前の顔をひっぱたくぞ
他の男なんか見ると〉

なんて嬉しいんでしょう
こんな風に愛されるなんて(くりかえし)
「こんな風に愛されるなんて」

マダム・アルチュール(Madame arthur)

「辻馬車」と並んで、ギルベールのもっとも有名な曲です。「こんな風に愛されるなんて」と同じ、ポール・ド・コックの詩にギルベールの作曲。1927年に創唱しました。大して美人でもないのに、多くの男を引き付けて虜にし、大きな屋敷に住み、毎晩オペラ座に出かける、話題の女!マダム・アルチュール・・・。
家賃も、店屋の支払も、・・・・すべて、うまくやってのける。(例の何か・・でね。)といった風に、告発調で語られる話題の女、アルチュール夫人。しかし、耳にはいってくるメロディーは、格調高く、美しい抑揚に終始していて、どんな噂の渦中にあろうが、やはり彼女は、カリスマ的に素適なんだ、と拍手を送っているかのようです。
ドッコイ生きてる、逞しい女のようで、なかなな素適な唄です。

ベルリゴダン(Verligodin)

古い曲を発掘して、自身で改作したものです。ベルリゴダンとは、人から恐れられている男の名前です。
私は、この曲の、メロディーと、伴奏が大好きです。

verligodin(ベルリゴダン)

・・・・どこから来たの、どこから来たの、私のきれいなベルリゴダン、
    どこから来たの、どこから来たの、私のやさしい友達。
    (市から来た。)
・・・・市から来たって?  市なんかないのに。
    (あるさ、へっ、市はあるさ。)

・・・・私に何を持って来たの、私の綺麗なベルリゴダン。
    私に何を持ってきたの、私のやさしい友達。
    (ほうき四本。)
・・・・ほうき4本?  どこにも見えないわ。
   (あるさ、へっ、ほうき4本。)

・・・・そう、どこへおいたの、わたしのきれいなベルリゴダン。
    どこへおいたの、私のやさしい友達。
    (隅にさ。)
・・・・隅に? 隅なんてないじゃない。
    (あるよ、へっ、隅においた。)

・・・・どうしてそんなに怒っているの、私のきれいなベルリゴダン。
   どうしてそんなに怒っているの、私のやさしい友達。
   (病気なんだ。)
・・・・病気?  病気じゃないわ。
   (そうだとも。へっ、病気なんだ)

・・・・じゃ、手当てなさいよ、私のきれいなベルリゴダン、
   じゃ、手当てなさいよ、私のやさしい友達。
   (金がない。)
・・・・お金がない?  お金持ちのくせに。
   (ほんとうだ、へっ、一文無しさ)

・・・・あなたの寝床の下に300フラン以上ある。
   私のきれいなベルリゴダン。
   あなたの寝床の下に300フラン以上ある、私のやさしい友達。
   (どうして知っている、)
・・・・だって、知っているのよ。
   (知ってるってことは分かったよ。だけど、へっ、どうして知ってるんだ)

・・・・みんなを飢え死にさせる気なの、私のきれいなベルリゴダン、
   みんなを飢え死にさせる気なの、私のやさしい友達。
   (俺のものさ。)
・・・・あなたのもの?
   (じゃないのかい。 もちろんさ、へっ、俺の金だ)

・・・・あんたが死ぬ時のこと、よく分かるわ、私のきれいなベルリゴダン、
   あんたが死ぬ時のこと、よく分かるわ、私のやさしい友達。
   (埋めてくれるだろうさ)
・・・・そう、でも神父さまに、お礼をするのは誰?
   (勝手にしろ、埋めてくれりゃいいのさ)

・・・・あなたの子供達が何て言うと思う、私のきれいなベルリゴダン、
   あなたの子供達が何て言うと思う、私のやさしい友達。
   「老いぼれが死んだ。もうわめかないぞ!」って言うわ。

   (だとすりゃ、それはまちがいさ。俺はわめいてやるぜ)

見捨てられた人(La delaissee)

作者不明の古謡。修道院に入った恋人への思いを、切々と訴える天使の様な心のあばずれ女と、彼女をさげすむ恋人、修道院長らの、位は高くても、人間的には、優しさおおらかさのない、上等ではない人々。
男女交えた三人の声を、使い分けて、一人で、さん役を歌うギルベールの、技がすごいです。

キリスト受難(La passion du doux jesus)

15世紀の民謡。キリストの受難を歌った、なかば宗教的な曲。もの凄く格調高い歌い方です。
聖金曜日の惨劇を沈痛な独白で語る「磔刑」のくだりは、寒気がするほど見事です。

イヴェット・ギルベールの功績

イヴェット・ギルベールは、現代シャンソンの創始者とも言うべき偉大なアーティストでした。語りかける(ディクション)独特の歌唱法を確立し、後の歌手に多大な影響を残しましたが、それは歌詞を重視し、言葉のリズムを大切にするとともに、文学的な詩情をかもし出す手法でした。後に(1928年)「シャンソンの歌い方」という本を出版し、その奥儀を後輩達に伝えました。これが、現代のシャンソンの基本であり、おそらくは、フランスのすべての歌の根底に受け継がれているものだと思います。

なぜなら、彼女によって、古い古謡(11世紀から19世紀のもの)が、集められ、非常な意欲で掘り起こされたからです。その数は、なんと!6万曲!!!!(驚きです!)

私は、彼女が好きで好きでたまらないのです!!(^.^)
70歳を超える1938年まで、たびたび独唱会や講演会を開き過去のフランスの歌をリバイバルさせ続けました。過去のフランスの歌は、彼女によって甦り、今日のシャンソンに発展していったのです。

イヴェット・ギルベールとその時代

ギルベールが全盛を極めたのは、ベル・エポック(よき時代)と言われる、1900年前後の時代です。パリ万博が開かれた1889年から、第一次世界大戦が始まった1914年までの25年間くらいの事をさし、フランスの力は、経済的にも大変充実していた時期でした。キャフェ・コンセール華やかなりし頃で、イヴェット・ギルベールは、そのキャフェ・コンセールの花形だったのです。
やがて、ミュージック・ホールの出現、さらには、映画の発明によって、古きよきキャフェ・コンセールは衰退してゆきました。年をとったギルベールは、1939年、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスに引退。そこを安住の地として、第二次大戦中の1944年2月2日、同地で世を去りました。(享年77歳)
幸いな事に、彼女の歌声は、晩年になってからですが、(1930年代)その持ち歌の主なものはレコードに吹き込まれる事に間に合いました。私が、レコードで聞いた「老人讃歌」「ベルリゴダン」「見捨てられた人々」「キリスト受難」・・・などは、65歳を過ぎてからとは、全く思えないような、艶と張りのある声のままで見事なものでした。 

*キャフェ・コンセール・・・・・音楽を聴かせるキャフェ(喫茶店)のこと。17世紀後半に始まり大いに流行して民衆の溜まり場となる。19世紀の後半になって、最も盛んになり、シャンソンの温床となりました。

イヴェット・ギルベールの足跡

イヴェット・ギルベールは、1867年1月20日、パリに生まれました。父はノルマンディの出身でしたが、賭博に身をもちくづして、妻子を残して出奔し、彼女が17歳の時、旅先で亡くなりました。12歳の頃から4年間、イヴェットは母とともに帽子作りをして働きました。それから、婦人服やのモデル、デパートの売り子、お針子など、さまざまな職につきました。18歳の時、彼女は町でズィドレルという男から声を掛けられました。彼は「イッポドローム」という曲馬小屋の支配人をしており、ギルベールに女騎手にならないかとすすめたのです。

もちろん彼女は断わりましたが、のちにズィドレルは「ムーラン・ルージュ」の経営者となり、終生協力を惜しみませんでした。彼からもらった切符で、ギルベールはサラ・ベルナールの芝居を見にゆき、演劇評論家エドモン・ストゥーリッグと知り合いました。そのすすめで、ディクションのレッスンを受け、彼女は1885年、ビュッフ・デュ・ノール劇場において、女優としてのスタートを切りました。

以降、ギルベールはパリの数々の劇場に出演し、地方巡業もおこないました。その貴重な体験が、彼女の歌にどれほど役に立っているか、はかり知る事が出来ません。

やがて1889年、「エルドラード」というキャフェ・コンセールでイヴェット・ギルベールは歌手としてデビューしました。もともと歌は大好きでしたし、ある俳優から「歌手になれば、うんと多くの収入が得られる」と言われたからです。しかし、お客の反応は冷淡そのものでした。

二ヶ月の後、彼女は「エダン・コンセール」に移りました。そして、この店で、緑色のサテンの衣装に、黒い長い手袋をはめるという、あの有名な独特のコスチュームを考案したのです。おかげで、彼女は人々の注目を集める事に成功しました。自分で歌詞を書き、ビレックという人が作曲した「酔いどれ女」という歌が、最初のヒットとなりました。しかし、経営者側との間に、トラブルが持ち上がりました。「店の上品な雰囲気に合わない」という理由で、レオン・クザンロフの作品をうたうことを、禁じられてしまったのです。

とくに「辻馬車」などは、「田舎向きにとっておくがいい」と言われました。後に、この歌はギルベール最大のヒットとなり、その名を不朽のものにします。

そこで彼女は「エダン・コンセール」を飛び出し、旧知のズィドレルが、1889年に創設したばかりの「ムーラン・ルージュ」へゆきました。けれど、この店は御承知のように、歌は添え物でむしろ、ダンスが主体でした。

ついでギルベールは「ディヴァン・ジャポネ」(日本の長椅子)というキャフェ・コンセールに移ります。
そして、ここでの大成功が、彼女の人気を決定づけました。「世紀末のディズーズ(語り手)」と呼ばれたギルベールを聴こうと、パリ中の名士や詩人や文筆家たちが、この店へ押しかけました。1894年、彼女を知った画家のトゥールーズ・ロートレック(1864~1901)は、そのポートレイトを描きました。

こうして、ギルベールは、多くのキャフェ・コンセールのほか、高級なクラブや劇場からも引っ張りだこになり、めざましい活躍をはじめます。「コンセール・パリジャン」「ラ・ボディニェール」「アンパサドール」・・・・等に出演、イギリスやアメリカへも演奏旅行に出かけました。

1900年、彼女は腰部の重病におそわれ、療養を余儀なくされました。5回も手術が繰り返され、やっと回復しましたが、これが転機となって、第二のキャリアーが始まります。すなわち、古いシャンソンの発掘と紹介・・・という、大事業にとりかかったのです。もちろん、キャフェ・コンセールや劇場にも出演し、世界各国を巡演しながら・・・。

このようにして、功成り名遂げた彼女は、やがて1939年、南仏のエクス・アン・プロヴァンスに引退し、1944年、2月2日、その生涯を閉じました。

幸いな事に、1930年代になってから、彼女の持ち歌の主なものはレコードに吹き込んでくれているので、100年近く時を隔てながらも、今私達は、その面影をしのぶ事が出来るのです。

参考文献

東芝EMIレコード『シャンソン・ド・パリ 第二集 イヴェット・ギルベール』(解説・永田文夫)
『薔薇色のゴリラ』塚本邦雄著(かなしみの妖婆・・・イヴェット・ギルベール論)

Yvette Guilbert (イヴェット・ギルベール)1867~1944

ロートレックの描いた人々

イヴェット・ギルベール

ロートレックは1894年にイヴェットを知り、その肉感と皮肉とのまじりあった不思議な個性にひきつけられた。この作品は、この奇妙な女優の個性を簡潔な色彩と線とであますところなく表わしている。ロートレックの性格描写の卓抜をうかがわせる。下がった眉や皮肉っぽい口元ばかりか長い手までがこのイヴェットの人間を示しているようだ。(ファブリ名画集より)

ジャンヌ・アヴリル

踊り子、歌手、女優(パリ・1868年~1943年)

ムーラン・ルージュから出るジャンヌ・アヴリル
マドモアゼル・エグランティーヌとその一座

狂死した娼婦とあるイタリアの貴族の間に生れ、悲惨な少女時代をすごし、その影響で神経症の余波がつづき、パリの精神病院でシャルコ医師の治療を受けた事もある。

是が非でも踊り子になりたがったが、はじめは会計の職にしかつけず、次いでアヴニュー・ド・ラルマの〈イポドローム〉で馬術を習う。

1890年強力な火薬の名を意味する〈メリニート〉という芸名で〈ムーラン・ルージュ〉でグーリュとともに「カドリール・ナチュラリスト」を踊る。

こうして彼女の名声がはじまり、パリの有名な店で踊り、ケート・ヴォーンにならってすさまじい踊りを披露する。

1890年から1894年にかけて〈ジャルダン・ド・パリ〉〈フォーリー・ベルジェール〉で大成功を収め次いでイプセンの「ペール・ギュント」コレットの「パリのクローディーヌ」に出演。1897年には〈カジノ・ド・パリ〉で躍る。「パレ・ド・グラース」で女性スケーターにまじって出演した後、エグランティーヌ一座とともにロンドンの〈パレス・シアター〉に出演。

20世紀に入ってからも地方とアメリカで成功を収め、再びムーラン・ルージュに戻った。1895年デザイナーでジャーナリストのモーリス・ビエと結婚したが、夫は1926年に死亡した。

晩年は貧困のうちに養老院に収容され(1933年)死んだ。多くの芸術家と友情を結び(アーサー・サイモンズとアルセーヌ・アレクサンドルは彼女のために詩を書いている)、特にロートレックとは親しかった。またモンマルトルの踊り子たちの間でも、ロートレックの絵を高くかったのは彼女だけだった。

ロートレックのほうでも彼女に多くの絵を贈ったが、彼女は数多い愛人に次々と手放してしまった。

シュザンヌ・ヴァランドン

本名(マリー・クレマンティーヌ・ヴァラード)
女流画家(1865~1938)

はじめ洗濯女、次いでサーカス〈モリエ〉のブランコ乗り、15歳の時ブランコから落ちてから、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ザンドメネギ、ルノワールのモデルになる。

1883年 息子誕生。これがモーリス・ユトリロである。
1889年 ロートレックのモデルとなり、また彼と結婚したがっていたように思われる。その意図を知ってロートレックは彼女を棄てた。

コメント