私のお気に入り|絵画|グウェン・ジョン

GWEN JOHN
グウェン・ジョン(1876~1939)イギリス

グウェン・ジョンの生涯

年譜

1876年   ウェールズのヘイヴァーフォードウエストで生れる
1884年   一家でテンビーへ引越す
1890年   ミス・ウィルスンの学校に在籍
1895年   ロンドンのスレード美術学校に入学
1898年   パリで勉強
1899年   ロンドンに戻る
1900年   ニュー・イングリッシュ・アート・クラブへ出品
1903-
1904年   冬をトゥールーズで過ごし、春にパリへ戻る
1904年   ロダンのモデルをつとめ、愛人となる
1909年   ジョン・クィンが作品の購入を申し入れる
1911年   ムードンに転居
1913年   カトリック教徒に改宗する
1914年   第一次世界大戦勃発。フランスに留まる
1917年   ロダンの死
1921年   ジョン・クィンに対面する
1939年   ディエップで没す

母の死

グウェンダリン・メアリー・ジョンは1876年6月22日、ウェールズのペンブロークシャーのヘイヴァーフォードウエストで生れた。父は弁護士、母は水彩画家であり、ピアニストだった。

上に1人兄が、下に妹と弟が1人づつ・・・
グェンは5歳の時に病弱で殆ど子供達とのふれ合いの時間を持てなかった母を亡くし、乳母のミミに育てられた。

しかし母親の代わりに温かい愛情を注いでくれた乳母のミミは、「子供達がなつきすぎる」という理由で、母の妹の二人のおば達にくびにされてしまう。

この二人の叔母は聖母マリアを異端的に崇拝するとしてローマ・カトリックを嫌った救世軍の福音伝道師だったため、『ハレルヤ・チャリオット』と呼ばれる馬車に乗って熱心に伝道活動をし、グウェン達きょうだいも救世軍に入れようとした。
子供達は厳しすぎる二人のおばの目を盗んで周囲の田園を歩き回った。ペンブロークシャーの田園はグウェンにとっては自由そのもので、夏に過ごしたブロードへイブンの海岸は心の扉を開放してくれた場所だった。

少女時代の彼女は感情の抑制と周囲の田園への脱出を繰り返す日々を送り、ともに写生が好きだった事もあって弟のオーガスタスとは特別のきづなでつながっていた。

ペンブロークシャーの海岸

少女時代

やがて父のエドウィン・ジョンはあまりに熱心に子供達を救世軍に入れようとする叔母たちからのがれ、弁護士事務所をたたんで、子供とともにテンビーの海に近い大きな家に移った。

テンビーでグウェンと弟のオーガスタスは海岸で思う存分に絵を描いた。いつもスケッチブックを持ち歩くという生涯に渡る習慣がついたのもこの頃からである。兄のソーントンは後にカナダで金の探鉱師になり、妹のウィニフレッドは母から受け継いだ音楽の才能でヴァイオリニストになり、そして、グウェンとオーガスタスは母のもう一つの才能、絵の道に進んだ。

少女時代のグウェン・ジョン

スレード美術学校

グウェンとオーガスタスはともに絵の才能に恵まれたが、正式の学校教育は男子のオーガスタスのみで、グウェンのほうは行儀作法や貴婦人らしい振舞いに重点を置くミス・ウィルスンの学校へ入れられた。

ここでの教育の影響で、グウェンは生涯、「帽子をかぶらずに外で出るとまるで裸でいるように感じる」し、どんな小さな好意にも、必ず礼状を出すことを忘れなかったという。

しかし、学問のほうは、算数の基礎がすこしと、フランス語少々くらいしか教わらなかった。
1894年、オーガスタスがロンドンのスレード美術学校へ進むと、翌年には、彼女も父親を説得して同じスレードへと後を追った。

ここで生涯の友アーシュラ・ティリットやアイダ・ネトルシップと知り合い、アイダはオーガスタスの最初の妻になった。
この頃からオーガスタスは姉の作品を高く評価し、自分よりも才能の優れた画家であると信じていた。
ずば抜けた才能をもち、ボヘミアン的な風貌や、奔放な生き方・・・で一時は時代の寵児ともなったオーガスタスだったが、後にはあれほど騒がれる事を嫌った姉の方が評価を受けるようになる。
実は、オーガスタスはすでにこのことを予想しており、次のように言っていたという。

「私は死後50年もたつころには、グウェン・ジョンの弟としてしか人々の記憶に残らないだろう」

実際にそうなったのだが、改めてオーガスタスのデッサンや絵をみると、ほとばしる才気が未整理のままに蠢いているようで、荒けづりながら生涯衰えなかったエネルギーに驚く。
もし200歳まで生きる事が出来たら、この続きが完成していたら・・と、残念な気持ちに襲われる。

オーガスタス・ジョン

オーガスタス・ジョンの作品

二度めの妻・ドロシー・マクルーニ(またはドレリア)を描いた『洗濯日』(1912年)
『叙情的なファンタジー』。4年に渡っての取り組みだったがついに未完に終った。

私の好きなグエン・ジョンの作品

『クローイ・ボートン・リー』  1907年

私はグウェン・ジョンの描く女性像が好きです。モデルになった彼女達は、皆どこか内省的な性格をもち、自分の心の窓を閉じて、荒々しい風が吹き込むのを拒んでいるように見えます。
出来れば、ガラス越しに降りそそぐ陽射しに包まれていつまでも小さな音に耳を澄ましていたい・・・・そんな風に見えてきます。

私自身もそういった非行動的な性格なので、とても親しみを覚えるのです。

「自己充足」
これは、グウェン・ジョンの生きたかとも重なりますが、彼女の「孤独」は選んだ孤独であり、生涯の友だったのではないでしょうか。(そんな中でも、ロダンへの愛はかなり情熱的で、複雑なものでした)

グウェン・ジョンは「私は室内画を描こうとする望み以外に、表したいものは何もないのかもしれない」と言っていたそうですが、こうした人物画も自画像も、もしかすると静かな時間の中での室内静物画だったのではないかとさえ思えてきます。

「ドレリアの肖像」1903年

1903年、グウェンは友人のドレリア・マクニールとローマまで徒歩旅行をしています。しかし、ローマは遠く・・・・・・トゥールーズで、ひと冬を越しました。春になって、パリに戻った二人はモデルの仕事を見つけます。やがて、ドレリアは一人でイギリスに帰り、・・・・グウェンは生涯を通じての大事件!・・・彫刻家のオーギュスト・ロダンとの出会いを経て、彼のモデルをする為に、パリに留まりました。

 この絵のモデル・・・友人であるドレリアは、のちに、グウェンの弟、オーガスタの妻となりました。グウェンはこの「黒いドレスを着たドレリア」のほか、数点、彼女をモデルに描いています。

『黒猫を抱いた若い女』   1920年頃

モデルの女性の名前は不明。グウェン・ジョンが最もよく描いたモデル。『回復期』という作品のモデルも彼女です。

大まかなタッチで描かれているのに、実に繊細な空気が見事です。黒猫の毛並みの質感が伝わってくるようです。

『クローイ・ボートン・リー』1910年

これも、クローイ・ボートン・リーをモデルにしている。エレン・セオドーシア・(通称・クローイ)ボートン・リーは、1907年にパリで知り合った数少ないグエンの生涯の友達だ。

グエンは彼女を描き、彼女もグエンを描いている。
この何か言いたそうに首を傾けた、訝しげなポーズはグエンの絵には珍しい。

大抵はポーズ自体には変化を好まない傾向があるように思う。シンプルな姿勢で、放心と忘我の中にひっそりと存在しているモデルと、それを静に描くグエンの一体感が、この友達の絵の中にはない。
クローイを描いた物が3点あり、どれも好きな作品です。

映画女優で言うと・・・
ちょっと、シシー・スペイセクや、シェリー・デュバル等を連想させる風貌の人。
私も、描いてみたい人。

『ティーポット』1915~1916ころ

ムードンのテルヌーヴ通りにあった彼女の屋根裏部屋で描かれた室内画の一つ。グウェンのパトロンだったジョン・クィンは彼女にこう言った。
「私が作品に興味をもつ女流画家は、あなたとマリー・ローランサンの二人だけです。あなたがたは女性らしい絵を描きますが、多くの女流画家は男のように描こうとし、そのためろくな絵が描けないのです。」

果たしてそうだろうか?

むしろ私は、繊細さは男性に、思い切りのよさは女性の気質のように思っている。

この静かな室内画にしても、じっくり観察したあと、描く段になると、どの部分も躊躇なく、1度塗ったきりで、上に加筆した所はまったくなかった。

迷いがまったくないのである。

迷いのなさは、自信というよりは諦観に近いにせよ・・・。

どこかでみたようなきがするな・・・と思っていたら、不意にヴュヤールの絵が浮かんだ。洗練されたナビ派とは気持ちのあり方は違うのだけれども・・。

『自画像』20代なかば

20代半ばの作品と言われるこの自画像を見ると、何だかグウェンの印象が揺さぶられる。内向的で人前に出る事を極端に嫌った彼女や、静寂を強く感じさせるその作品とは違和感がある。

20代半ばを仮に、25歳と数えたなら、・・・
運命の出会いとも言うべき、ロダンに会う前のことだ。
ロダンにあった事で、彼女は光を知り、光が閉ざされる影の中をさまよう事を知らされた。

苦悩の時が彼女にもうじき訪れようとすることなどこの時のグウェンには知る由もない。

イギリス人らしい風貌は、色気はないがなかなかの美人だと思う

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