野島神社

祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
合祀:天照皇大神/菅原道真公/市杵島姫命/誉田別命/天児屋根命/須佐之男命

神事:元旦祭(1月1日)/賽の神(1月14日)/稲荷祭(2月初午)/夏大祭(7月吉日)/汐祭(9月1日)/霜月祭(11月23日)
社殿:相之門造/本殿流造/拝殿入母屋造/幣殿両下造/銅板葺き

横浜市金沢区野島町23-1

野島山は金沢小学校区の端っこにあって、ここから通ってくる子は遠くて大変だな・・と子供の頃思っていた。私の家は学校のすぐ近くにあり、野島は低学年の遠足では必ず行くところだった。

しかし今そのころ住んでいた町屋町から歩いてみると、なんだこんなにすぐ近くだったのか・・・と思う。子供の頃の自分の歩幅を懐かしく空想してあっという間に野島山を一回りした。

野島周辺もすっかり変わってしまっていたが、海に面した裏側には埋め立ての及ばなかった僅かばかりの自然海岸が残っていた。そこは無性に懐かしい磯くささがあって、岩には青海苔や海藻がへばりつき、松原もそのままあった。

海の向こうはアメリカだと思っていたのは小学生の私。今は海の向こうには八景島がドカンといるのだ。

昔と変らない野島橋下の船着場。遠景には見知らぬ高架の道路か・・・と思ったら、モノレールらしい。
橋の下を覗いてみたら、橋げたの鉄骨にびっしりと貝が付いていて、同じ光景を幾度となく見た子供時代がよみがえった。

野島橋~野島~を経て追浜方面にはこの夕照橋を渡る。右端に見えるのが野島山野島は横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ島で、昔は砂州によって陸と繋がっていたのだそうだ。その後平潟湾と東京湾をつなぐ水路の建設により分断されて島になり、今は野島は二つの橋(野島橋・夕照橋)で陸と繋がっている。
この夕照橋は広重の「金沢八景」の中の「野島夕照」に描かれたところです。

野島海岸は横浜市内で唯一残った自然の砂浜で知られている。
また、標高約57メートルの野島山の山頂には展望台があり、山の下には巨大な隧道があって子供の頃は防空壕と呼んでいたが、これは第二次世界大戦の時、海軍の飛行艇格納庫として作られたものだという。

実際には使われなかったという事だが、封鎖され、ツタや雑草にうづもれながら、今も変らずに黒い口をあけたまま黙り込んでいた。

なつかしい乙舳(おっとも)の松原。遠景には八景島シーパラダイスが見える。

野島山公園の管理事務所の前を向かって右手に進むと野島公園の途切れたあたりに「野島神社」の鳥居がある。
鳥居をくぐると10メートルばかりの参道があり、手水舎があって、周囲はちょっとした広場になっている。
ベンチがあるので、野島海岸にキャンプにきた家族連れなどが木陰を求めて、弁当を開いたりしていた。

参道の突き当たりは石段で、その両脇には何体ものお稲荷さんのキツネが台座の上に座っている。
たくさんのキツネに凝視されながら石段を上がるとちょっとゾクゾクする。

野島稲荷神社 由緒

金沢八景の一つ「野島夕照」で知られる野島山南側山すそに鎮座する稲荷神社(正一位稲荷大明神)は豊川稲荷・笠間稲荷・伏見稲荷の日本三大稲荷の中の京都伏見稲荷系統です。

この神社は野島町の総鎮守で、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)をおまつりしています。野島神社は安貞元年(1227)の昔、鎌倉時代に阿波守長島維忠の発願により、その子修理佐頼勝が造立したものと伝えられています。

また、土地の古老の話によれば、万治年間(1658~1660)野島浦の南端に紀州大納言・徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称したということです。

稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にあり、そのため鬼門の守り神として、頼宣公の篤い尊信を受け、社殿造営にも力を尽くしたという事です。

「稲魂社」と書かれた拝殿の社名額
拝殿と本殿
拝殿の木鼻

境内社

石段を登りきると岩肌をほぼ直角に切り開いたような境内に、いくつかの小さな祠がある。残念ながら、それぞれの名前はどれがどれなのか不明だが。
(神明社/船玉社/秋葉神社/錕羅神社/天満宮/皇大神宮)

しだ類の繁った岩山からひんやりとした冷気が降りてきて足元にまとわりつく。
拝殿と後ろの本殿からさらに山を少し登るこみちがあり、その上にも境内社があったそうだが今は登れそうもない。

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