諏訪神社 (すわじんじゃ)

祭神:健御名方命(タケノミナカタノミコト)
創立:正親町天皇(おおぎまちてんのう)の御宇天正元年(1573)3月12日

横須賀市若松町3-17

京急線横須賀中央駅を下りてすぐの平坂下に鎮座。周辺は駅前の繁華な通りで飲食店やデパートが立ち並ぶ目抜き通りだが、一歩境内に踏み入ると、無性に懐かしい昔の横須賀の人々の暮らしのにおいが立ち上る。
今はもう亡くなった親戚のおばあさん、おじいさんの若い頃の町の風がスーっと吹きぬけるような感じがした。

通りからの入り口は二ヶ所あり、正面の鳥居方向と、側面の路地からも小さな鳥居がある。

境内はそれほど広くはないが、社名標から大鳥居、そして広場があって、前庭が広く取られているのでとてもゆったりとした空間が造られている。

ごみごみとした横須賀の駅前にあって、このゆったり感は貴重な精神的オアシスになっていると思う。

諏訪神社由緒沿革

創建は社記に次のとおりある。「正親町(おおぎまち)天皇の御宇天正元年(1573)3月12日信濃國諏訪明神(現・諏訪大社)の御分霊を勧請す」

享和元年(1801)8月、本殿拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年(1923)5月造営されたものである。

往古、三浦郡横須賀村字中横須賀(現在の下町商店街地区)瀧(たき)に鎮座し、「後背の丘陵海中に屹立し遥かに江戸湾を一望に収め波浪の響常に絶えず」という環境にあり、住民は専ら漁業を以って生計となし、よって当社も漁業の守護神として崇敬をあつめた。

明治の御世に至り、横須賀軍港の設置に伴い転入者が逐年増加するようになったため、付近の山崖を切り崩し海岸を埋め立てることとなり、当社の存置が危ぶまれたので、三富長兵衛・今井市兵衛・浅羽平蔵氏等が自己の所有する山林を寄進し、社殿を奉遷したのが現在地である。

因みに、この付近の埋め立ては主に市内鴨居の高橋勝七氏によって施工されたため、その屋号「若松屋」をとって若松町と名付けられた。

大正11年(1922)5月「村社」に列格、更に同年9月内務省より神饌幣帛料を供進すべき神社(「指定村社」)に指定された。

以来、横須賀市の中心たる下町商業地域の中核をなす神社として御神威高く、遠近の氏子崇敬者の尊崇篤い。5月の例祭と11月の酉の市(境内社「大鷲神社」の例祭)は有名で、市の内外から参詣者が群参する。

鳥居をくぐり広場を過ぎて二番目の石段を上がると、両脇の狛犬がある。
今まで見たことがないパターンの形だった。口が大きく、髪の毛が短い。

狛犬の横に手水舎、その後ろに社務所である諏訪会館がある。

拝殿の社名額と梶の葉の社紋

重厚な感じのする社殿には、向拝や虹梁・木鼻などに立派な彫刻が施されていた。

拝殿の蟇股
拝殿の屋根

境内社

大鷲神社(おおとり)

御祭神:天日鷲命(あめのひわしのみこと)

古くから当社の境内に鎮座する。11月の酉の日は三浦半島唯一の酉の市が立ち、開運や商売繁盛を祈る人波で雑踏を呈す。

水天宮

御祭神:天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)/安徳天皇/建礼門院平中宮/二位尼平時子(にいのあまたいらのときこ)

嘉永元年(1848)福岡県久留米市の水天宮を勧請鎮祭した。

安産・子育・水難除けの神として霊験あらたかである。

水天宮前の狛犬。これも変った形だ。

稲荷神社

御祭神:宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)/太市姫神(おおいちひめのかみ)

三富稲荷と称し、京都伏見稲荷大社を本宗とする。衣食住を主宰し給う神で、殊に殖産興業神、商業神として信仰篤い。

神楽殿
神輿堂

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