新作八幡宮

御祭神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)/応神天皇/神功皇后(じんぐうこうごう)
配祀神:天照皇大神(あまてらすおおみかみ)

川崎市高津区新作3丁目6番15号

多摩丘陵の東端の高台にあり、昔は遠く羽田や川崎の沖まで見渡せたという、景勝の地に鎮座する新作地域の人々の産土神(うぶすなかみ)である。

新作八幡宮は、鶴岡八幡宮の分社の説があり、また一方ではそれよりも古いのではないかという説もあるが創建の年代は不詳。

御祭神は、応神天皇(御名 誉田別尊 ほんだわけのみこと)、そのお妃である玉依媛命(たまよりひめのみこと)、母君である神功皇后(じんぐうこうごう)の三神。

また元神明社の御祭神、天照皇大神が御同座されている。

新作八幡宮のご神体は、高さニ尺位の座像で、極彩色に彩られ、芸術的薫りの高い神々しいお姿です。

社殿は、典型的な八幡造りで、本殿・幣殿・拝殿から成り、本殿の中の御神殿は、本格的な宮造りの美を極めている。

古記録(棟札)によれば、本殿は文政9年(1826)に造営され、拝殿はそれより20年後の弘化3年に建てられたと伝えている。

境内社

【奥八幡宮】御祭神/飯縄大権現(いいずなだいごんげん)
【三の宮】御祭神/熊野三社大神
家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)
熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)
熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)
八坂皇大神(やさかすめおおかみ)

境内社ご造営までの経緯

「新編武蔵風土記」によれば、橘樹郡稲毛領新作村には、村社・八幡宮の他に、5つのお社があった。

それは、仏手台(ぶっしゅだい)の続きの丘(奥八幡山)に『飯縄(いいづな)社』及び熊野三社、村の西(神明台)に『神明社』、八幡宮の末社として『三峯社』及び『牛頭天王社』の五社である。

これらのお社は、いずれも養福寺持で、住職が別当(神主兼務)を務め、村人の信仰の対象として、尊崇されていた。

明治に入って、神仏分離や神社合祀令によって、お寺の手を離れ、お宮は、八幡宮境内に寄せ宮されたが、その後長い間にお社は全てなくなり、御神体は八幡宮神殿に八幡大神と御同座という、大変はばかり多い状態であった。

そこで、当時の祖先の遺徳をうけつぐと共に、大神の御神慮に応えまつり、大神様の御神徳によって代々にわたる至福と繁栄がもたらされる事を祈願してお社の再建が発願された。

第一町内会をはじめとして、地元各団体、組合及び、崇敬者有志により「御造営委員会」が結成され、資金の募集、事業の企画推進が強力に進められた。

御造営と記念事業は総額1900余万円の浄財をもって、昭和61年4月に着工、同年9月に完工、9月28日「遷宮祭」が盛大に行われた。

奥八幡宮

奥八幡宮は、もとは奥八幡山に鎮座していたが、御祭神・飯縄(いいずな)大権現の御神像は「金翅鳥(きんしちょう)童子」といい、不動明王の化身です。

鳥形両翼をそなえ、大火焔を背負い、御手に剣と索を持ち、天狗のお顔で飛弧に乗った、見るからに厳しいお姿です。

烏天狗二体を従えておられます。
これは、武州高尾山薬王院のご本尊と同じお姿です。

飯縄大権現は信州飯縄山に平安末期に生まれた信仰で、戦国時代の名だたる武将に篤く尊崇され、やがて関東一円にその信仰は広まりました。和合敬愛の神として崇められ、正しい信仰の火種は、一粒をも万倍とし、商売するに当っては、大きな利益を頂き、家内和合して、除災延命せしめ、子孫の繁栄と至福を招く事ができます。

除災開運、祈願成就の福神で、もろもろの祈願もさることながら、特に、一生一度の命に関わる願い事は、一心に祈願すれば必ず通じるといいます。

高尾山では、次のようにお唱えしています。

『南無飯縄大権現  /婦命頂礼 飯縄権現 勧請諸神 威光倍増 一天四海 安穏泰平 人法繁栄 家内安全 万民豊楽 子孫繁栄 信神諸氏 所願円満 乃至法界 平等利益』

熊野社とその由来

同じ奥八幡山に、熊野社がありました。その御神像は、男神の礼服礼冠形、僧服形、女神礼服形の三体です。
これは、紀州の熊野三社の御祭神即ち、

     熊野新宮・・・・熊野速玉大神
     熊野本宮・・・・家都美御子大神
     那智大社・・・・熊野夫須美大神

の垂迹(すいじゃく)のお姿と符号しております。
なお、家都美御子大神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と異名同神であると言われております。

八幡様の古記録(棟札)には、「寛政元年8月吉祥日『奥八幡大菩薩宮殿一宇所願成就』と記されています。寛政元年は、歴史に伝えられる天明の大飢饉(天明2年~7年)の僅か2年後にあたります。

当地のご先祖達が、あの悲惨を極めた天明の大飢饉の直後、打ち続く疲弊困窮の時代にあって、村民一同の豊作、繁栄、災厄滅除を切願して、奥八幡山の約450坪という広い境内地にお社を建立し、この近在には見られないような立派な御神体を奉祀したことは、そのなみなみならぬ信仰の深さと財政的底力の大いなることを表すものです。

やがて明治維新になり、神仏分離や神社合祀令等によって、この飯縄社・熊野社の二社は八幡宮境内に寄宮されますが、時を経るに従い堂宇が取り片付けられ、御神体は長らく八幡宮神殿の中に御同座されておりました。

昭和61年、今上天皇陛下御在位60年奉祝記念事業として、新たに社殿を御造営しました。
この新しい三の宮には、熊野三神と共に古くからあった境内社の八坂皇大神(やさかすめおおかみ)と三峯大神が御同座されております。

新作八幡宮奉賛会編 「新作八幡宮のお話」より

八坂皇大神(やさかすめおおかみ)

新編武蔵風土記には、八幡宮の境内社として「牛頭(ごず)天王社、本社に向いて左にあり・・・」とあります。これは八坂社のことです。

牛頭天王は、天竺の祇園精舎の守護神です。本来は、疫病神の頭領です。疫病や病中害をもたらす精霊の統御神として崇めお祀りし、病気や災いを防いで頂こうという信仰によるものです。

京都の八坂神社は、古来、祇園様とか、牛頭(ごず)天王社とも呼ばれています。
主祭神は、素盞鳴尊及びお妃・稲田媛命です。七世紀中葉(斎明朝2年、656年)朝鮮新羅の牛頭山から素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御神霊を迎えまつりて社殿を建立しました。

朝廷の尊信極めて篤く、武家の信仰も多く洛中の人々の信仰も集めて、現在に至っております

三峯大神

八幡宮に古くから保存されている懸額には、三峯社と八坂社との社号が並んで彫ってある一枚の額があり、「東菊」の署名があります。(内田寛蔵氏・自作奉納・明治37年征露記念)このことから、江戸時代には三峯社と八坂社は別々のお社であったものが、明治のころ一社に合祀されたものと思われます。)

三峯神社は、埼玉県秩父郡東部の山岳地にあります。鎌倉時代に修験道の人によって開山され、明暦の頃(1655年ごろ)土地の有力者が崇敬寄進され社殿が造営されました。

三峯様の御眷族(けんぞく)の“お犬様”を門口に張れば、盗難除けになると信じられ、関東一円、さらに、東海、中部地方にまで急激に盛んになり、各地に講が作られるようになりました。当地の三峯社がいつごろ勧請されたのか、その時期は明らかではありません。

平成19年4月14日/正遷座祭の様子

平成19年4月15日/『奉祝春祭』の様子

写真:新作八幡宮HPより・・・・・http://www.geocities.jp/kamunagara/frame.html

狛犬

御神木

境内・参道

入口は二ヶ所あり、社務所の横の鳥居(写真左)からの裏口と、男坂・女坂(石段)から昇る正面の鳥居(写真右)がある。境内は巨木が生い茂り、賑やかな町の中からは別世界のように静かで、見晴らしも良い。

手水舎と、その後ろには公衆便所も備わっていた。

男坂・女坂・夫婦坂の石標がある表参道の石段。男坂・女坂はそれぞれの厄年の数になっている。

向拝・木鼻の彫刻

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