(東岸)叶神社

御祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇

横須賀市東浦賀2丁目21-25

(西岸)叶神社前の渡船のりばから船で浦賀湾を渡り、5分ほど歩くと東叶神社の大きな石の鳥居が現れる。すぐ前は海だ。実に開放的な気分になる。明るい褐色の砂が境内をより南国的に感じさせる。頼朝ゆかりの蘇鉄もとても大きな社名標も全てがおおらかで明るい。何となく南の島の神殿のような感じがした。

※渡船のシステムは、定時運行ではなくて随時乗りたいときにブザーを押す。東岸か西岸かどちらかに船は居てブザーが鳴るとそちらに来てくれる。料金は大人片道150円。(昼の12時から1時の間は運休)
すぐに対岸に着いてしまうけど、その間海上から浦賀ドックや湾内を航行する船を眺めて潮風に吹かれているのはとても気持ちが良い。

(東岸)叶神社由緒

東浦賀の守護神である(東岸)叶神社は、社殿によれば養和元年(1181)京都神護寺の僧文覚が源家の再興を発願して、山城国男山にある石清水八幡宮を当地に勧請なされ、もし源家の再興実現の折には、永くその祭祀を絶えざるべしと祈念したところに始まると記されている。

その後、文治2年(1186)には源頼朝公が平氏一門の滅亡により源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、「叶大明神」と尊称されたと伝えられている。

社殿に昇る石段の両側に植えられている一対の蘇鉄はこの時に頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたものと伝えられている。

なお、この創建の意を汲んでのことであろうか、その後、源家の当社に対する崇敬信仰は甚大なものがあったと推測される。この事は当社に伝わる、鎌倉幕府二代将軍頼家公の銘を刻んだ花鬘(けまん)一対からも容易に察せられるのである。

現社殿は昭和4年(1929)に再建された建築で銅板葺権現造である。神社の境内は総面積約2千坪で、その中に本殿(奥の院)・拝殿・社務所・境内社・その他諸石造物・石碑などが配置されている。

中でも境内神域の三分の二を占める明神山は、往古から自然林・常緑樹木の宝庫として神奈川県から天然記念物に指定されている。(「叶神社由緒畧記」より)

御神徳

叶神社は第15代応神天皇さまを奉斎するところから八幡社の御利益すなわち、国家隆昌・家業繁栄・航路平安・交通安全・厄除開運・勝運長久などの御神徳があります。

また、社号の命名の由来より、願いが叶うというところから、心願並びに諸願成就に特に顕著なる御神威を発揚なされます。

古来、境内内にある「恵仁志坂(えにしざか)」「産霊坂(むすびざか)」の二つの坂は縁むすびにご利益があるとされております。お参りされますと、恋愛に限らず、仕事・友人・その他諸々の良縁を結んでいただけます。(「叶神社由緒畧記」より)

恵仁志坂

拝殿の左奥に明神山・本殿奥の院へ続く長い石段がある。その途中恵仁志坂と書かれた石碑がある。奥の院への石段は223段あり、中段までを恵仁志坂、中段から頂上までを産霊坂(むすびざか)という。

境内社他・境内散策

海から手が届きそうなすぐ近くにある大きな鳥居。石の色も明るい白褐色で境内の中から鳥居越しに見る風景もまたほかにはない独特の気持ちよさがありました。

手水舎(鳥居を入って右)
海を眺めている狛犬

手水舎のとなりに社務所があり、その前を奥に進むと厳島神社(身代り弁天・写真右がある。
石窟のなかにお祀りされている弁天様は天災・人災による病気・事故その他危難に際し、身代りになって下さるとして近在の信仰を集めている。(例祭は7月18日)

身代り弁天を右奥へ進むと、勝海舟使用の井戸がある。
安政6年(1859)幕府は日米修好通商条約批准交換のため使節派遣を決定。その随行艦として幕府軍艦咸臨丸の派遣も決まった。船将として任命された勝海舟はその責務達成のために、死を賭しての悲壮な決意をしていた。

咸臨丸の航洋性や艦齢からみた船体強度の問題、自己の身体上の危惧などから、万一不幸にして沈没・遭難など不測の事態を惹起した場合に備えて、後図を託するため、長崎以来の盟友・中島三郎助の国内残留を懇請したのだとつたえられている。

その中島を訪ねた後、その足で(東岸)叶神社に詣り、境内にある井戸水を汲んで潔斎・水垢離を済ませ、欝蒼とした樹林に囲まれた奥の院の片隅、幽邃の地を選んで座禅を組み、断食修行に入ったのである。

叶神社の祭神である原初の八幡神は、もともと海神で航海・渡航の守護神であることからその加護を祈願して断食を行ったと言われている。
勝海舟が断食修行の際に着用した法衣は、現在東叶神社に奉納保存されている。(東叶神社HPより)

勝海舟使用の井戸

境内中央の石段を上がる途中に頼朝が伊豆より移植したと伝えられる蘇鉄が見える。

権現造りの拝殿
社名額

社紋は西叶神社は菊葉紋だが、東叶神社は十六菊紋

拝殿の蟇股
木鼻

両方とも口を結んだ「吽形(うんぎょう)」の狛犬。西叶神社の方は、どちらも口をあいたように見えるので、二社で一つの対をなしているとも言われている。
この東叶神社の狛犬は、お乳を飲ませていたり、背に子供を乗せているところだったり一風変っている。顔に似合わずアットホームな感じがあったかい! (資料:福祉だより「うらが」より)

拝殿の左奥へ進むと、明神山山頂の本殿・奥の院へと昇る石段が鬱蒼とした自然林の森の中に続いている。

拝殿左脇には神輿堂、石段を少し上がったところには、朱塗りの「湊稲荷社」がある。

三浦半島沿岸部に残された数少ない自然林として学術的な価値も高い明神山一帯の社叢林は天然記念物に指定されている。

山頂部には主にスダジイ・マテバシイ林が、また斜面部にはタブノキ林が生い茂り、高木層は20メートル以上のタブノキが優先している。他にもモチノキ・シロダモ・ヤブニッケイ・ヤブツバキなど・・・・種類も多く、自然度が高い。

山頂には、本殿奥の院、境内社の「東照宮」「神明社」と浦賀ドック殉職者の慰霊塔がある。

海に面した鳥居や拝殿の周辺の明るさから一変して、昼間でも薄暗い石段をひたすら昇って、巨大なやぶ蚊の襲撃にあいながら山頂に着くと、やや広々した円形の広場にでる。

ここに上記の本殿と境内社、慰霊塔があるのだが、勝海舟が断食をしたという場所もここである。いっぱい蚊にさされただろうな・・・などと、不謹慎な事を考えながら(女1人ではあまりにも怖いので・・・)さっさと下山した。

本殿・奥の院
神明社
「東照宮」
浦賀ドック殉職者の慰霊塔

浦賀城・海賊城

浦賀城は、小田原北条氏水軍の海賊城で、叶神社奥の院のある明神山に本丸があり、二段の曲輪が今も残っているという。

永正15年(1518)三浦道寸を、新井城にて滅亡させ、三浦の地を得た北条早雲は、北条水軍の根拠地を、三崎城におき、大改修を加えて、防備に当たらせた。

そのころ房州の里見水軍がたびたび三浦半島に出没し、弘治2年(1556)塚原備前守、富永三郎左衛門、遠山丹波守等、三崎城にて里見左馬頭義弘の軍勢と戦い、里見軍は兵船80隻をひきいて、城ヶ島に陣を構え、大合戦となったが勝負はつかず、里見軍は房総へ引き返した。

そこで浦賀水道に面し、浦賀港のある明神山に海賊城を構築した。これが三崎城の支城、浦賀城である。
そして、「浦賀定海賊」を起用し防衛にあたらせた。

天正18年(1590)豊臣秀吉は、小田原城を攻め北条氏は滅亡した。

浦賀海賊衆は後北条氏に属して、三崎城に立てこもり、豊臣方の徳川家康と戦闘を交え、城が陥落した後、城ヶ島に立てこもり、応戦を続けたのちに家康と和睦し、徳川水軍となった。そして浦賀城は廃城となったのである。

(東岸)叶神社のHPは、とても充実した内容の掲載があり、また各年の例祭のアルバムや、改修工事のようすを写したアルバム、浦賀城の縄張り図まで載っていました。とても参考になり、ここにも引用させていただいた箇所もあります。

興味のある方は是非、叶神社HPをご覧下さい。

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