竹田城(たけだじょう)別名:虎臥(とらふす)城
朝来郡和田山町竹田 <城所在地・朝来郡の1>
- 時代/永享3年(1431)~慶長5年(1600)
- 主な城主/太田垣氏5代、桑山重晴、赤松廣秀。
- 現状/JR播但線竹田駅の裏手にそそり立つ、海抜353メートルの虎臥山の頂きに、遠目にもはっきり見える堅固な石垣をめぐらし、天守・本丸・東丸・高見台・南千畳・北千畳・花殿・大手門を備えた、全国的に見ても、第一級の、典型的な山城遺構である。
説明
竹田城の歴史については、従来、竹田在住の郷土史家、中山東華氏が、同家に伝わる『天正太平記』(笠垣富五郎著)を中軸に、古老の語り継いできた史話や、氏の多年の研究の成果を集大成され、『南但竹田』『新天正太平記』として発表されたものが、通説として一般に信じられてきたのであるが、最近多くの研究者によって、新しい文献や資料の発掘があり、また、城郭の比較研究からの新しい知見も発表されて、通説の改訂を迫られているところが多い。(このことは今後も研究の進むにつれて増えてくるだろう。)
最初にこの地に城を築くことを考えたのは、『六分一殿』の別名で知られ、『応仁の乱』の立役者、山名持豊(宗全)である。
丹波の細川氏、播磨の赤松氏に備えて、この要害の地に、難攻不落の堅城を築こうと、部将・太田垣光継を宰領に、築城師としては、山城国住人、大江岸巳ならびに赤松蔵人を招き、永享3年(1431)から嘉吉3年(1443)まで、足かけ13ヵ年の歳月を費やしたと言う。
山頂の難工事に地元民は駆り出され、生活は苦しく、田畑も荒廃して「加都田圃に松の木が生えた」と今も伝えられ、夜逃げする者も続出したと言う。
そうまでして城は出来上がったが将軍の後継問題や、重臣間の勢力争いなどで、宗全は京を離れることができず、白旗城攻めで、大手がらのあった、大田垣光景を初代城主に命じた。
しかし、城郭研究家(根津架津之氏)の言によると、現在残っている遺構は、その時のものでなく、不置様式から見て、天正8年から12年頃にかけて、構築し直されたものであろうと言われる。
初代城主 太田垣光景
自 嘉吉3年(1443)~至 寛正6年(1465)
金梨山に諏訪神社を建立、竹田城の守護神とする。(現存)
西大路山に、香華院千眼寺を建立、菩提寺とする。(現存せず、寺屋敷は残る)
享徳4年(1455)春4月、赤松則尚ら赤松の残党、将軍の許可を得て兵を挙げ、山名政豊の居城、播磨室山城を攻撃、室山城では意外な大敵にあって援軍を求めてきたので、光景は早速駆けつけ、赤松軍を粉砕、則尚、一旦は備前に走ったが、大馬島で自害した。
二代城主 太田垣景近
自 寛正6年(1465)~至 文明11年(1479)
応仁元年(1467)正月、京都に手兵を率いて上京、留守は僅か16歳の4男新兵衛を中心として、笠垣兵尉、小林修理亮などがこれを助けていた。
山名勢の手薄を知って、播磨の赤松政秀は、赤松家再興の機はこの時とばかり、赤松牢人を糾合して播磨における山名勢の本拠とも言うべき室山城を攻め落とし、その勢いにまかせて、神崎郡大山町まで進撃してきた。竹田方では、軍師、笠垣兵尉の一軍がこれを迎え撃ち、戦うこと三ヶ月に及んだが、勝敗はきまらなかった。
そのうち、赤松、太田垣の両軍ともに、京都より援軍の督促があったので、和議を結んだ。
竹田城がいよいよ手薄になった事を知って、今度は細川方の丹波八上城主、内藤孫四郎に、成松城主、疋田長九郎左衛門が、2000余騎を率いて、夜久野ガ原へ出撃してきた。竹田方は、養父郡八木城主に援兵を頼むと共に、中路八郎三郎に、手兵1000騎を以て正面の敵に当たらせる一方、軍師、笠垣次郎左衛門は、僅か200騎の手兵を従えて、栗鹿山麓伝いに丹波街道へ回り、細川方の兵糧輸送路を遮断して、背後から襲いかかって、混乱させた所へ、八木城主が、援軍5百騎をつれて糸井谷から襲撃、三方から包囲されて攻め立てられて、細川方の、内藤、疋田、長谷部たち、首領いずれも討死、潰滅してしまった。
三代城主 太田垣宗朝
自 文明11年(1479)~至 大永元年(1521)
文明15年(1483)12月、出石の山名政豊は、さきに失った播磨の領土奪還を志して出撃、播磨の赤松政則もまた、1500騎を国境“真弓峠”まで繰り出して来た。山名軍は折からの大雪を利して猛進撃、赤松軍は潰滅的打撃を受けて退散、山名軍はこの時とばかりに、置塩城(鞍山城)ついで、英賀城・坂本城を攻めおとし、念願を達成した。
しかし、文明17年(1485)置塩城主・赤松政則が蹶起、4月には鞍山城を、翌18年には英賀城を、長享2年(1488)7月には坂本城を、奪いかえし、完全に播磨一円を手中に収め、赤松家中興の大業をなしとげた。
四代城主 太田垣宗寿
自 大永元年(1521)~至 天文6年(1537)
宗寿は深く佛教を信仰、善政を敷いたので、領民から深く慕われていた。
大永元年(1521)生野銀山を再開発、金山彦命を祀って鉱山の隆盛と、鉱山従業者の安全を祈念するとともに、自ら銀山を巡視して、振興につとめた。
天文2年(1533)6月、出石此隅城主、山名祐豊は、生野銀山の盛運をねたみ「もともと生野御主殿は、わが祖常煕公の所領であった。主領の許しもなく銀山を開発するとはけしからぬ、以後、主領直轄を以てする」と厳達して、宗寿からとりあげてしまった。
五代城主 太田垣朝延
自 天文7年(1538)~至 天正元年(1573)
天文7年(1538)「生野銀山は、わが父・宗寿の開発したもの、それを横取りするとはけしからん。このままではわが武士道が立たぬ」と、血気にまかせて、生野御主殿山城を急襲、山名祐豊を遁走させ、生野銀山を取り返した。
天正元年(1573)竹田城が、主家と争って孤立したことを知って、播磨置塩城主・赤松則房が軍使三名を竹田へよこした。
朝廷は、怒って三名を斬った。則房は、時こそ来たれと、精兵三千余騎を率いて攻めて来た。赤松軍の先陣の大将は、神吉信濃守長秀、第二陣の大将は、泥宗右衛門直正、第三陣の大将は、別所三郎直介であった。
これに対して、竹田方は、生野城へ鈴木甲斐守正春、杉原七郎左衛門を、山口城は、物部治政を大将とし、援軍としては、笠垣次郎武祐を第一陣、第二陣は、朝廷の伯父・大田垣定延を、城下の護りは、梶原森之亟一正を、本陣は、竹田城総軍の指揮をとる城主・朝延に、軍師、笠垣三郎兵衛盛本で、二重三重の備えであった。
しかし、赤松の大軍は、驚くべき猛進撃で、生野城はまたたく間に落城、山口城も援軍の到着するまでに落城、援軍も奮闘したが、支えきれず、敵は竹田へと雪崩込んできた。
朝延は「今はこれまで、城へ火を放って自害」と覚悟したが、軍師、笠垣三郎兵衛のすすめで、千眼寺裏山越しに因幡に遁れた。
赤松軍は、八木城も攻略、八木但馬守豊信も因幡に逃げた。勢に乗った赤松勢は、更に北上して田結庄城を攻めたが、戦果あがらず、播磨に引きあげて行った。
ところが、10月、北から毛利勢の吉川元春が、因幡守護の山名豊国、但馬守護の山名祐豊および、奈佐日本助を討って、因・伯に於ける尼子の勢力を除こうと7千余騎の兵を率いて伯耆に入り八橋に出陣した。
山名豊国はその勢に恐れて降伏したので、元春は兵を進め篠尾に屯営し、但馬へ侵入の気配をみせた。
出石城主、山名祐豊をはじめ、亀崎城主、垣屋豊続、鶴ガ峯城主、垣屋播磨守、竹田城主、太田垣輝延なども前後して降伏した。
しかるに、12月には入ると、尼子勝久が山中鹿之助の将兵を率いてひそかに但馬には入り、翌2年正月、吉川元春が兵を徹した後これを追って数城を回復し、因幡に入って鳥取城を攻め、山名豊国を帰属させた。
ところが、天正3年にあると、山名祐豊は、その子尭煕、太田垣輝延とともに、再び毛利に和を請うというように、山名に昔日の威はなく、周囲の情勢に右往左往せざるを得なかった。
10月、丹波黒井城主、荻野直正が、但馬に侵入、山名祐豊の移築間もない出石城および、大田垣朝延の竹田城を攻めて来た。山名祐豊はこれを制圧することができず、織田信長に援助を求めた。信長は明智光秀を派遣、まず竹田城を奪還し、敗れ退いた直正を、その本城・黒井城に攻めた。
天正5年10月、羽柴秀吉は兵数千を率いて播磨に入り、11月に入って、但馬に兵を進め、山口の岩洲城を抜き、ついで竹田城に大田垣朝延を攻めてこれを陥れ、大田垣は城を捨てて因州にのがれた。
六代城主 桑山修理大夫重晴
自 天正8年(1580)~至 天正13年(1585)
天正8年、三木城を攻略した羽柴秀吉は、3月にはいると自ら総大将となって、但馬へ、第二次の征討の歩を進めた。
朝来郡の諸城は、既に一度制服したところなので、殆ど抵抗なしに降伏した。
竹田城へは、重臣、桑山修理大夫重晴をすえて、毛利への備えとした。
天正11年(1583)「賎が岳合戦」には竹田より出陣、主将として軍功をたてた。
天正13年(1585)多年の軍功により、和歌山城主へ転封された。
七代城主 赤松廣秀
自 天正13年(1585)~至 慶長5年(1600)
永禄5年(1562)播州龍野城主・赤松政秀の二男として生まれ元亀2年(1571)父を失う。
天正5年(1577)12月、羽柴秀吉の中国攻めの時、廣英(播州時代は英を使う)16歳で龍野城主であったが、降伏して、平位郷佐江村に退去した。(その当時斎村姓を使う)
天正10年(1582)3月、備中高松城攻めには、龍野城主、蜂須賀正勝の部将として先陣をつとめる。この時より廣秀と名乗る。
天正13年(1585)6月、四国攻めにも従軍、その行賞として、竹田城主、(二万二千石)に封ぜられた。
天正15年、宇喜多秀家の妹と結婚。
天正18年(1590)豊臣秀吉の北條攻めに、兵550人を率いて従軍。
文禄元年(1592)朝鮮征伐にも従軍。
慶長5年(1600)7月下旬から8月上旬にかけて、東軍に属する田辺城の細川幽斎を攻める。対陣中に「関が原」に於ける西軍の敗報が入ったので囲みを解いて、竹田に帰りもっぱら恭順の意をあらわしていた。
その頃、東軍に属して、鳥取城の宮部氏を攻めて苦戦していた、鹿野城主、亀井茲矩から、「鳥取城攻めを手伝ってくれるなら、徳川氏へうまく取り持ってやろう」との誘いがあった。その甘言に一縷の望みをつないで鳥取城攻めに加勢した。
ところが、放火によるものか、失火によるものか不明であるが、一夜城下より火を発し大火となり、城中にも燃え移って行った。
亀井、赤松軍とも、この火を利用して攻め入り、城は落ちた。
早速、亀井は徳川氏へ戦勝の報告をしたが、家康の激怒にあい、恐ろしさのあまり、『赤松の手の者の不始末から・・・・』と言い逃れをした。
家康は、かねてから、
(1)廣秀は西軍に属して田辺城を攻めたこと。
(2)西軍の宇喜多秀家を探索するけれども、なかなかつかまらないが、秀家は、廣秀の義兄に当るので、秀家の逃亡に関係しているのではないかと疑っていたところに、今回の失策である。直ちに切腹を厳達した。
一方、廣秀の方も、亀井の甘言に一縷の希望は託したと言うものの、かねてから覚悟はできていたので、身辺の整理をし、老臣に細々と後事を指示した上、鳥取城外の真教寺で、屠服して、49年の生涯の幕を閉じた。真教寺住職によって、乗林院可翁松雲居士と諡された。
勿論、鳥取に葬られたのであるが、仁君として敬慕していた領民達がひそかに、竹田と、養父郡八鹿町大森の二ヶ所に分葬、今日まで、忌日を祀ったり、遠忌供養をつづけている。
廣秀が佐江村退居当時、近くの景雲寺で修業中の藤原惺窩(せいか)と相知り、還俗儒学者として独立、宋学振興に活躍するに至ったのは、廣秀の経済的援助に負うところが大きい。
廣秀の悲報に接して、惺窩は傷心やる方なく、短歌三十首を作って、生前の友諠をしのんだ。(惺窩との往復文書では廣通と称している)又、佛教にも信仰深く、郷里の斑鳩寺に、天正13年、鐘楼を寄進している。
廣秀の死後、家臣は一旦、竹田に引き揚げ、主君の遺言通り後事を処理した後、縁辺を頼って仕官するもの、或は帰農する者と、離散して行き、城も荒れるにまかせ今日に至った。
大田垣氏系図
赤松氏系図
高田城(たかたじょう)
和田山町高田字シロノカサ <城所在地図・朝来郡の2>
高田部落から、円山川を隔てた俗称「シロノカサ」にある。低い丘の上に、二段の曲輪が作られているが極小規模で、城というより館址と呼ぶほうがふさわしい。現在は雑木や笹が繁っている。
村の古老の言によると、中世雑賀小左衛門を頭領として「ジゲ七軒衆」と言って、同じく雑賀姓を名乗る人々が、ここを根拠地として姓威を誇っていたらしい。
高田部落そのものも、往古は、その付近に散在していたらしいが、円山川の川筋の変化につれて、現在地に移住して行ったとも伝えている。
雑賀氏は後に、芳賀野の後藤氏と争って敗れ、城も落ちたと伝える。
現在、高田部落に10軒、堀畑部落に12軒雑賀姓を名乗る家があり、高田城主の子孫と信じられているようである。
法道寺城(ほうどうじじょう)別名:岡城
和田山町法道寺 <城所在地図・朝来郡の3>
法道寺部落と岡部落の境界にあたる山上にあるので、法道寺城とも岡城とも言う。
周囲に土塁をめぐらせた形跡がある。
中世のものと考えられるが、城主など不祥。
早崎氏館(はやさきしやかた)
和田山町岡 <城所在地図・朝来郡の4>
俗に「シロヤマ」と呼んでいる。ごく小さい独立丘に、三段の台地を作った館址があるが現在雑木林と笹が茂っている。周囲は自然の地形を利用して土塁をめぐらした形にあり、中に深さ20メートル以上と思われる井戸が一基ある。
土塁、早崎氏の館址と伝えるのみで、いつの時代か、早崎氏の出自、事跡等一切未詳である。
土田城(はんだじょう)別名:富栖城 遠見ガ城 鳶ガ城
朝来郡和田山町土田 <城所在地図・朝来郡の5>
- 時代/寛弘年間(1004)~天正5年(1577)
- 主な城主/太田垣則高、時高。また、福富甲斐守とも伝える。
- 現状/和田山から八鹿へ通ずる国道9号線と、和田山から出石へ通ずる糸井街道の接点にあたる。要害の、海抜340メートルの山上に、三段ばかりの段丘と、堀切りをもった砦である。頂上は十年生位の桧が茂っていて、正確な測量もむずかしい状態である。
説明
土田郷・牧田郷と山堺之事
石田松蔵氏によると、寛弘年間(1004)土田兵部尉太田垣則高および、その子、土田太郎太田垣時高がこれに拠った。とされており、また、『伊達文書』によると、「延文元年(1356)9月21日、伊達三郎真信は、山本次郎左衛門とともに、ここにいる土田太郎左衛門を攻める」という記述がある。
『朝来志』に、天文23年(1554)6月、牧田郷の民、養父郡土田郷の民と、内高山の境界を争う。太田垣土佐守、山本平左衛門と議し、その主、山名祐豊の命を奉じて、境界をつくり協定する。山名祐豊の免状は、
百姓等申詰筋目垣有之、太田垣条々申分候間、雙方限長尾
可進退之由定候訖。
次土田山出入之儀於有之者、可成敗之由、対太田垣堅申定候間、
其旨可被存候。
猶徳丸備後守、赤木能登守可申候。
恐惶謹言。
七月十八日
宗詮 花押
福富七郎右衛門殿
これでみると、牧田郷は、太田垣に属し、土田郷は福富氏に属していたものと考えられる。
高生田城、和田城とともに、この土田城も、福富氏に属していた時代があり、いずれも、豊臣氏に、天正5年、(1557)亡ぼされたものと解してよいようである。
土田陣屋(はんだじんや)大屋敷
和田山町土田 <城諸事地図・朝来郡の6>
- 時代/延宝元年(1673)~明治まで
- 主な城主/小出氏六氏
出石城主、小出氏の六代英安の弟・英直が延宝元年12月12日に、出石、気多、美含(みくみ)、養父四郡の内、新墾地1500石を分封されて、土田に陣屋を構えた。
その六代目、大和守秀実は、旗本として御小姓組から御目付を経て文久2年(1862)函館奉行となった。
この時、イギリス領事館員によるアイヌ墓地盗掘事件が発生、この事件で、粘り強く折衝、盗掘した人骨は返還させるとともに償金も支払わせ、領事も更迭、英国政府の謝罪文書も取りつけた。
その外交手腕が高く評価され、慶応2年8月には、樺太境界交渉のための正使として露都モスクワまで赴いた。しかし、この交渉はうまく行かず、「樺太は、日本、露国の共同所領で、自由に往来できる。」という形で妥結して帰ってきた。
帰国後、外国奉行、御勘定奉行、町奉行等、閑職を経て慶応4年2月辞職、明治2年6月22日、刺客にあって36歳の短い生涯の幕を閉じた。
陣屋はしっかりした門があり、建物も7つくらいあった由である。一時、親戚の土岐氏が住んでいたが、無住となり、門は養父教蓮寺の山門に、建物も和田山の秋月庵や、白井家等へ移転されて、現在は畑地にかえってしまっている。
土田小出家
寺谷城(てらだにじょう)
和田山町寺谷 <城所在地図・朝来郡の7>
現在は杉や檜が植林されているが、土地の古老は「シロヤマ」と呼び、段階状になっている山の姿が、かって砦であったことを物語っている。
誰が構築し、守備したか等は全く不明であるが、竹田城との関係で構築されたものであろう。
枚田城(ひらたじょう)
和田山町枚田 <城所在地図・朝来郡の8>
- 時代/応仁~天正
- 主な城主/枚田光季
- 現状/枚田部落の南はずれ、内高山の南すその突出た頂に二段ばかり平地があり、土地の人は「シロヤマ」と呼んでいる。現在は雑木の茂るにまかせている。
中山東華編 『新天正太平記』に次のような記述がある。
「また、この戦乱(夜久野合戦)で、太田垣の重臣の一人である、枚田光季は、敵将内藤孫四郎の家臣で、豪の者と名も高かった夜久権之丞を討ち取った軍功により感状を授けられたのである。
この枚田光季は、日子坐王系統の日下部氏の末裔で、祖先、枚田又太郎光盛は、朝来郡司少領、日下部城主八世の孫である。」
代々、枚田郷の地頭であったが、光季の時見出されて、太田垣宗朝の重臣となり、この合戦に出陣したのである。
夜久権之丞を討ちとり勇名を挙げたが、この夜久野が合戦に、彼は8人の部下を失った。光季はその霊を弔うて碑を建てた。
「八士塚」と呼び、今もなお内高山のふもとにある。
塚の碑文を要約すると、「八人同じ処に歿す、則ち同じ処に埋め永く冥福を祈り、華台に斉上す」云々とある。
光季が単なる豪傑ではなかったことがしみじみとわかる。
枚田光盛の曽孫に、盛成と左京亮の二人があって、どちらも山名に仕えた。
その四世の八郎は、山名政豊の命で太田垣に従い、伯州に戦って陣歿した。八郎の弟、祐盛の後裔、光春は、通称・勘蔵といい、文化年間に枚田延盛の養子となった。
光春は早くから風雅の道を愛し、観世流謡曲をよくするとともに、礼典の道にも明るかった。光春の末裔、枚田政敏は、通称を吉左衛門と呼び、明治初年の大郷長である。
なお政敏は、好学の人で、心学、道学、儒学、仏典の清学を修めた当時の碩学であった。
現在の枚田村、枚田家の祖である。
市御堂城(いちみどうじょう)
和田山町市御堂 <城所在地図・朝来郡の9>
土地の人はジョウヤマ(城山)と呼んでいる。海抜140メートルばかりの独立した丘に、段丘状に作られている。
竹田城の出城として、竹田城と殆ど時を同じうして作られたものと思われる。
城主など不祥。
比治城(ひじじょう)
和田山町比治 <城所在地図・朝来郡の10>
- 時代/応仁~天正
- 主な城主/梶原氏と伝える。
比治部落の東南にある梶原山、又はゴテンシ山とも呼ぶ海抜300メートルの頂上に、掘切り一つと、その上に二段の台地を作っている。
上の台地の広さは約300平方メートルくらい、山東町、和田山町各方面に眺望が開けていて竹田城、衣笠城、鳶が城、諏訪城、柴城、向山城、夜久野城、鬼が城なども視野に収めることができる要害の地である。
土地の豪族・梶原氏が築いたが、森之丞の時、竹田城主・太田垣氏に属して、竹田城と運命を共にしたという。
安井城(やすいじょう)
和田山町安井・同町久留引 <城所在地図・朝来郡の11>
安井部落と久留引部落との間の独立丘にかなりの規模の三段構えの曲輪跡がある。
築城年代、城主等一切不明であるが、その位置からして、竹田城の出城と考えられる。
糸井京極陣屋(いといきょうごくじんや)
和田山町寺内 <城所在地図・朝来郡の12>
- 時代/寛文3年(1663)~明治まで
- 主な城主/京極氏8代
- 現状/明治維新のとき、9代目京極要之助が、東京に移住、陣屋も不要となったので、学校用地として払い下げ、現在まで、寺内小学校校地として使用して来ている。
もちろん建物は改築、老杉も切り払われて、当時の面影を偲ぶものといっては、校門になっている陣屋の旧門だけである。
説明
和田山町の旧糸井村地域は、平安時代は、法勝寺領であったが、徳川時代になって、京極氏、仙石氏、天領、(生野代官支配)と三分された。
京極氏は、丹後田辺城主(舞鶴)として3万5千石を領していたのであるが、寛文8年(1668)豊岡に移封、後1万5千石に減ぜられ、明治に至っている。
寛文3年(1663)京極飛騨守高直の長男伊勢守高盛が家督相続の際、次弟の兵部高門を糸井に分家、陣屋を造築した。高門の所領は、糸井村の寺内・林垣・高生田で、1070石、美含(みくみ)郡長井庄で930石、そのほかに安房国安房郡に200石、計2200石であった。
京極氏は旗本として、目付役や奉行などを勤めていたので、平素は家老黒澤氏に領内の行政をみさせていた。
8代目の京極能登守高朗は、若い頃より非常にすぐれていて、外国貿易の開始と共に、貿易御用取扱を命ぜられ、文旧2年(1862)第一回遣欧使節の監察(大目付)を勤め、帰朝後は、神奈川奉行や長崎奉行を勤めた。
糸井京極家家系図
高生田城(たこうだじょう)別名:福富城
和田山町高生田 <城所在地図・朝来郡の13>
- 時代/応仁の頃~天正5年落城
- 主な城主/福富甲斐守と伝える
- 現状/和田山町から出石へ通ずる糸井街道を眼下に見下す、海抜220メートルの山上に、三段の段丘を設けている。現在は雑木山であるが砦としてはかなりの結構をもっている。
説明
福富甲斐守は、出石郡出石町桐野の出身で、山名の属将として、糸井谷を支配していたものと思われる。盛時には城下に市場も開かれたりしていた模様であるが、山名の滅亡と共に帰農、子孫は出身地である桐野で、代々庄屋を勤めたようである。
伝説によると、豊臣氏がこの城を攻めたがなかなか落ちず、占師に占わせたら、「この城東西に二道あり。あたかも巨人の両足を踏ん張った形である。即ち生城である。したがって、片足を切ったら必ず落ちるだろう」と。
そこで早速、土民を集めて、本道である西の道を簸掘らせたらたちまち落城したという。
補説(福富氏の事)
但馬国出石郡桐野村は、天正19年(1591)までは、小坂村の一部で、字桐野と言い、出石川を隔て南方拾余町のところにあり、天正年代27戸であった。
同地の住人、源兵衛・九郎兵衛・嘉右衛門などが、主体となって、別に桐野村と言う一村を立てようとしたが、庄屋役となる適当な人物がなくて困っていた。
たまたま、出石町宗鏡寺の沢庵和尚が、かねて桐野に隠退したい志があることを聞いていたので相談に行ったところ、和尚が、「わしの知人にぴったりの人がある。それは、養父郡糸井に、福富甲斐守の子で福富紹意という人である。わしから頼んであげよう」とのことであった。
桐野慈眼寺の記録にも檀越福富某とある。
また出石加茂神社棟札に、永禄11年5月11日、山名右衛門督祐豊公家臣、三宅豊後守、田結庄右馬頭、及此外家臣34人が書き列ねてかる由、糸井中学校編 『糸井郷』の中に誌している。
和田城(わだじょう)別名:市場城
和田山町和田 <城所在地図・朝来郡の14>
- 時代/応仁の頃~天正5年落城
- 主な城主/福富甲斐守と伝える
- 現状/和田山町から出石へ通ずる糸井街道が、朝日峠への上りにかかる咽喉首を押さえる位置、海抜280メートルの山上に、三段ばかりの段丘が作られている。
石垣はないけれども、頂上の台地には十数箇所の石が散在している。かつての建物の礎石であったかも知れない。
説明
高生田城と同じ、山名の属将福富甲斐守に属していたものと思われる。従って、豊臣氏の但馬攻略にあい、天正5年(1577)に落城したものと思われる。
コメント