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MISTINGUETT
ミスタンゲット(1873~1956)

レヴューの女王“ミスタンゲット”

イヴェット・ギルベールが“キャフェ・コンセール”の花形なら、ミスタンゲットは、その後、隆盛を極めた、ミュージックホールの、レヴューの女王と言えると思います。ギルベールと並んで、私の、最も好きなシャンソン歌手5人に入る女性です。(イヴェット・ギルベール、ミスタンゲット、エディット・ピアフ、ダミア、マリ・デュバ)

エンターテイメントと言う事では、一番ではないでしょうか。「女」ということの「悪臭」をこれほど愛すべき姿で振りまきとおした人を、他に知りません。
私の感じるもっとも好ましいセックス・シンボルは彼女なのです。

★ミスタンゲットに捧げられたポール・デルヴァル(演出家)の賛辞・・・・・・・

「ミスタンゲットは完全な美人でもないし、とくに優れた歌い手でも踊り手でもない。けれど、彼女がステージに現れると、その魅力たるや!まさに奇跡的だった・・・・・・」

★ミスタンゲットに捧げられたジャン・コクトー(詩人)の賛辞・・・・・・・・・・・・

「ミスタンゲットは、パリの最上のものを表現する。彼女は、われわれの心に、愛国心を掻き立てる。」

プロフィールと、その足跡(1873~1956)

ミスタンゲットは、本名をジャンヌ・ブルジョワといい、1873年、パリの郊外のアンギャン・レ・バンで生まれました。母はフランス人、父はベルギー人(彼女が若い時に死亡)で、椅子やベットのマットを作る仕事をしていました。幼い頃から、彼女はなかなかのお転婆で芝居やサーカスに憧れていましたが、手をやいた両親は、その気質を和らげようと、バイオリンを習わせました。12歳の時、ジャンヌは同じ町の二人の娘とともに、パリへ通ってオペラ座のバイオリニスト、ブッサゴールのレッスンを受けました。

彼は、バイオリンだけでなく、歌も教えてくれました。
たまたま、アンギャン・レ・バンとパリを往復する列車の中で顔なじみになったのが当時売れっ子のレヴュー作家サン・マルセルでした。彼は彼女に、ヒット中のオペレッタの題をとって、「ミス・エリエット」というニックネームをつけました。そして、「君がステージに立つ時には、Miss Tingetteと言う名前にしてほしいね」と言いました。そのころ、彼が作った「ラ・ベルタンゲット」という歌が流行していたので、それと韻を合わせたのです。

やがて、ミス・タンゲット(ミスタンゲットMistingettと綴るになったのは、1907年の事です)は、1895年、「トリアノン・コンセール」で歌手としてのでヴューを飾りました。1897年には、「エルドラード」(いずれも、キャフェ・コンセール)に出演し、その後約十年間、ここを根城にして、かなりの成功を収めます。当時、この店の大スターはドラネムでした。

 1908年、ミスタンゲットは、ブッフ・パリジャンで上演された、リップ作のレヴュー「ちびのフローラ」に出演し、場末の小娘を演じました。これは大いに好評を博し、新聞は彼女の脚線美をたたえました。以降、パリの下町娘は、ミスタンゲットの十八番の役どころになりました。

 1909年、彼女はムーラン・ルージュでマックス・デアリーと組んでヴァルス・シャルペー(アパッシュ・ダンス)という激しいダンスを踊り、センセーションを巻き起こしました。マックス・デアリー(1874~1943)は、本名をリュシアン・マックス・ロランといい、本来は歌手でしたが、何でもやってのける才人で、ミスタンゲットの踊りっぷりを見て、このダンスを思いついたと言う事です。のち、ロンドン公演のパートナーに、彼はダミアを選び、彼女が世に出るきっかけを作ります。

 1911年、ミスタンゲットは大スターとしてフォリー・ベルジェールに出演しました。その相手役を務め、ヴァルス・ランヴェルサント(びっくりワルツ)という、コミックでアクロバティックなダンスをともに踊ったのは、かのモーリス・シュバリエ(1888~1972)でした。彼は、「エルドラード」時代から、ミスタンゲットのファンでしたが、共演はこれがはじめてだったのです。

 彼女は15歳も年下のシュバリエを愛しました。第一次世界大戦で彼が捕虜になったとき、その釈放を頼みに東奔西走し、スペイン国王に手紙を送ったりして、ついに望みを達したことは、余りにも有名な話です。
 戦争中、(1914~1918)は軍隊を慰問し、戦後はミュージック・ホールに君臨して、彼女はかずかずのヒットを放ち、レヴューの全盛時代を築き上げました。

ミスタンゲットは、エルドラードのプリンセスであり、フォーリー・ベルジェールの公爵夫人であり、カジノ・ド・パリの女王だった」

キャフェ・コンセールから、ミュージック・ホールへ

・・・・・・と、作詞家のアルベール・ウィルメッツ(1887~1964)は言っています。「彼女は、そのからだの中にリズムを、ジェスチュアの中にファンタジーを、音符には心を動かす何ものかを持っていた。」・・・・と。

こうして、ミスタンゲットは、1951年まで、(なんと!78歳まで)ステージに立ってうたい躍りました。この年の12月、舞台稽古の最中に、狭心症の発作を起こして倒れた彼女は、その後は自叙伝を書いたりしながら静養生活を送り、1956年1月6日、パリの郊外のブージヴァルにある弟の家で、静かに世を去ったのです。

ベル・エポックも、第一次世界大戦によってピリオドが打たれ、シャンソンの主導権は、ミュージック・ホールに移りました。
ミュージック・ホールは、キャフェ・コンセールよりも、ずっと規模が大きく、そこにはシャンソンのほか、アクロバットや踊り、道化や動物の調教など、バラエティ豊かなショウが展開されます。そして、キャフェ・コンセールとは違って、お客は飲食物を取る義務を負わず、入場料を払ってそれを観賞するわけです。

英語の呼び名が示すとおり、ミュージック・ホールの起源はイギリスにあります。1840年、ロンドンのウィンチェスター・ホールにおいて歌を含むいろいろな演し物の興行が行われました。これが、大会場でのこの種のショウの始まりでした。さらに1848年、チャールズ・モートンという人がカンタバリー・ホールを使って、モダンなミュージック・ホールのスタイルを確立し、全国に広めました。

フランスでも、19世紀を通じて、キャフェ・コンセールは少しずつ、サーカスまがいのショウを取り入れたりするようになり、その成功が広くてととのったミュージック・ホールの設立を促しました。こうして、「ゲーテ」(1868年に設立)、「フォーリー・ベルジェール」(1869年)、「カジノ・ド・パリ」(1890年。はじめ1868年にキャフェ・コンセールとしてスタートし、1890年に移転してミュージック・ホールとなる)など、名高いミュージック・ホールが次々に誕生しました。ただし、「ミュージック・ホール」という名称が、フランスで用いられるようになったのは、1893年以降の事であり、ジョゼフ・オルレという人が、同年創立した「オランピア」を、この名で呼んだのが最初です。

いっぽう、キャフェ・コンセールの「バ・タ・クラン」(1913年から)や、「ムーラン・ルージュ」なども、ミュージック・ホールに転向し、従来のキャフェ・コンセールは次第に消滅していったのです。
初期のミュージック・ホールでは、シャンソンはそれほど重要な地位を与えられていませんでしたが・・・・・・次第にその中心を占めるようになりました。そして、ごく自然に、ふたつのタイプが出来上がりました。

ひとつは、歌手や芸人が順番に登場して、トゥール・ド・シャン(自分の持ち歌を披露して、出番を埋めること。もちろん、キャフェ・コンセールで聞かれるシャンソンのほとんどがそうでした。)をおこなったりする。いわば、日本の寄席のようなスタイルであり、もう一つは、「レヴュー」でした。

御存知のようにレヴューは、華やかなステージで展開されるスペクタクルなショウです。装置や照明に金をかけ、登場人物はゴージャスな衣装をまとい、時にはヌードを配したりしながら、多かれ少なかれ歌と踊りとアトラクションが結びついたシーンが、次々に進行して、全体としてひとつにまとめ上げられているわけです。

こういったレヴューの始まりは、1886年、フォリー・ベルジェールで演ぜられた「若者たちの広場」でした。20世紀にはいると、バ・タ・クラン(1910年)、オランピア(1911年)、コンセール・マイヨール(1914年)、カジノ・ド・パリ(1917年)、ムーラン・ルージュ(1926年)などのミュージック・ホールが、相ついでレヴューを上演しました。とくに、第一次大戦後は、戦勝気分も手伝って、大掛かりなレヴューが爆発的に流行しました。

そして、ミスタンゲットは、この分野における、不世出の大スターでした。

本日のミスタンゲット「百万長者を探して」

私は百万長者を探している。
いきな男で、私を
せめて月に1度位は欲しがってくれる人。
私は百万長者を探している。
冷静に
〈僕の全財産は君のもの〉と言ってくれる人。
私は百万長者を探している、
スター達の持っているような物を持ち、
豪華な料理を食べたいから。
私は百万長者を探している。
そのために街を流しているのだ。
いきになるのはやさしい。
お金がたんまりあれば。
人に目を見はらせるのはいい気持ち、
お金がどっさりあって、
ふところの計算をしなくてすめば。
私は百万長者を探している。
私は知っているのだ、人数は少ないけれど
連中が、お金を使いたがっていることを。
私は百万長者を探している、
そのために街を流しているのだ。

ほら、とてもすてきな青年が、
もったいぶらずに寄って来て、
手にキスをしてくれる。
〈あなた、いいこと、
私はあっさり本題に入る主義よ〉

・・・私は百万長者を探しているの、
  いきな男で、私を、
  せめて月に1度位は欲しがってくれる人を。
  
 (僕がその百万長者さ。  君に冷静に、 ≪僕の全財産は君のも    の≫と言うよ。)
・・・あなたはまったくのやくざタイプよ。
  (ところがしこたまもうけたのさ)
・・・それでは、大切な百万長者さん。
   あなたのお金の番でもいたしましょう。

かわいいあなた、
あなたがとても気に入ったわ・・・
お座りなさいよ   もっとそばに・・・
もっとこっちへ・・・そこに・・・
私の眼をよく見てちょうだい。
今度は抱いて・・・
もっと強く・・・もっときつく・・・
そう   ・・・噛み付くようなキスねああ、それでいいのよ!

このすてきな百万長者は
あらゆる点で、申し分なく
私を満足させてくれる。
この百万長者となら、
怠屈しないで暮らせるのは確か。

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