御祭神:彦座命(ひこいますのみこと)/天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)
豊岡市日高町野々庄字下小屋782
由緒
創立年月不詳ながら、次のような記述が「国府村誌」にある。
「雄略天皇3年(459)、但馬国造(たじまくにのみやつこ)として国府村に来た黒田大連(おおむらじ)は、美努連嘉摩(みののむらじかま)を鳥取部とし、鳥を捕らせて料理を作らせた。翌年、美努の功績を賞した黒田は、彼の祖先である天湯河板挙命を祀って美努神社と名付けた。・・・・」
このような記述が見られることから、おおよその年代がわかる。
明治3年、美努神社は現在の三野神社に改称された。
延喜式には小社となる。
境内社:稲荷神社。
天湯河板挙の名前は、「日本書紀」の垂仁天皇のところに出てくる。30歳になるまで、喋ることが出来なかった天皇の御子が、天湯河板挙が捕まえてきた白鳥のくぐいによって、喋ることができるようになり、鳥取造を賜ったとされている。(参考:久々比神社由緒)
彦座命は日下部氏の祖神
私のカメラではこの神社の不思議な広さが伝わらないが、実際にここに立つととてもガランとした空間がある。又、社殿はかなり大きくて、前に行くと妙な威圧感を感じた。何もかもが普通より大きい感じだ。
祭礼や行事のない時期だったので、境内は草が伸び放題に繁っており、余計そんな気がしたのだろう。荒れた感じというよりむしろ太古の昔から風雪に耐えてここにあったような堂々とした気配がある。
覆屋の中の本殿には3羽の鳥を配した神紋の幕があり、初めは熊野権現に関係があるのかとも思ったが、国府村誌によれば、上記のように鳥取部(ととりべ)に所縁の神社ということなので鳥紋はそこから来ているのかもしれない。<覆屋の中の本殿の幕>
三野神社の鎮座する「野々庄」は国府平野の真ん中を円山川から山本・藤井地区の方まで横に長く横断している。昔から薬師祭、うぶすな講、霜月祭、御柱(おとう)祭など講や祭りが盛んに行われてきた地域で、昭和初期までは秋祭りには舞台や用具のすべて揃った本格的な能・狂言が上演されていたという。
また、この地域周辺は、国府の発展を支える平野がいち早く開けていたことから「野」と呼ばれていた。野々庄・池上・西芝の3つの区は、以前は三野村という一つの村で、それぞれ上野、中野、下野と呼ばれていたが、後に3つの集落にわかれ、三野を意味する野々庄の名が付けられたと言う。
(参照:「ひだか辞典)
境内社の稲荷神社
周囲を田園に囲まれた立地のせいもあって、実際の広さよりも広々とした印象を受ける境内は、草の間に点々と石碑や壊れた石造物があり、やや荒れ果てた感じを受けた。
境内右手の木立のそばに亀の形の大きな自然石があり、地元の人に尋ねたが「亀石」としかわからず、伝説など不明。
コメント