祭神:楯縫神社・・・彦狹知命 (ひこさしりのみこと)
八幡宮・・・譽田別命 (ほんだわけのみこと)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木677
旧312号線を江原から豊岡方面に向けて進むと鶴岡橋信号の手前に4つ角がある。
鶴岡橋に向かって右へ曲がり、突き当りまで進むと円山川の土手のすぐ手前に「式内楯縫神社」の大きな灯篭が見える。
大変立派な神輿堂を持ち、神楽でも知られているこの神社だが、近くに住みながら(私の村の山の裏手に当たります)来てみた事は初めてだった。
神社近くに住む氏子の方が声をかけて下さり、興味があるのなら神社大改築のときの記念冊子をあげましょう・・・と言われて、大変詳しく記載された本を頂いた。
HPでご紹介させてくださいとお願いすると快く承諾してくださったので、一部をここで引用させていただきます。
由緒沿革
創立年月不詳。職業集団である楯縫部族の祖先彦狭知命が祀られている。
延喜式には小社となる。中古には春日社と称し鎌倉時代には神領四町九反六十歩を有していた。
明治6年10月村社となり、同32年本殿を再建し、同35年本殿覆を再建した。
昭和22年(合祀されていた井田神社より)現在地に遷宮し、同40年本殿を新築した。
昭和63年円山川堤防改修工事に伴い、社殿を新築移転し、平成元年全てが完成。
同4月、竣工奉告祭が行われた。
現在の狛犬
先代の狛犬
鳥居をくぐると右手に「手水舎」があり、正面奥に拝殿、その後ろに本殿がある。また、拝殿手前左には境内社の稲荷社があり、その後方に以前の狛犬が金網に囲まれて保存されている。(老朽し、崩れやすくなったため子供などの怪我の元にならないよう新調されたのだそうです
楯縫神社の歴史と伝承
参考資料:「楯縫神社・併社の御由緒」楯縫神社改築委員会編
御祭神 彦狭知命(ひこさしりのみこと)
大昔、日本の国に「天孫降臨」といって、日本の国を創り治めるため、天照大神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をお遣しになりました。この「ににぎのみこと」に五伴緒(いつとものお)といって、5人の神様が随神(ずいしん)としてついてこられました。
その中の1人の神様を太玉命(ふとだまのみこと)と言います。
この太玉命は神様のまつりごとを行うための神殿の造営、或いは祭りのための飾り物などを造る為、5人の神様をお連れになっております。
その5人の神様のお1人に「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」がいらっしゃいました。又、他に手置帆負命(ておきほおひのみこと)がおられますが、このニ神は共に神殿を造る為に仕えておられたようです。
彦狭知命の「彦」というのは、神様をあがめたてまつる意味の言葉だと言われており、「狭知(さしり)」とは「度量知(さししりと読む)」のことで、物の大きさを量る意味だと言います。
また、手置帆負命は物の長さを測るという意味があると言いますから、このニ神が神殿の造営に当り今の設計士、大工の役割をした事がわかります。
今でもこのニ神は建築の神様として祀られています。このように彦狭知命は物を造る役割をもたされた神様ということであります。
楯縫神社の社格
楯縫神社は延喜式にその名を見ることが出来ることから、延喜式内社(式内社)となります。
延喜式格というのは、醍醐天皇の時代、西暦925年に完成した律令の改廃、修正をj規定した紹勅や、太政官符(延喜格)と律令の施行細則をきめた(延喜式)からなっており、この延喜式の中の神祇式(じんぎしき)の中に全国にある名神大社の祭神名が列挙されています。
この法令集に記載されている神社の事を延喜式内社、又は式内社といっているのです。
気多(けた)郡には、大(四座)、小(十七座)、合計二十一座の名が見え、楯縫神社(たてぬいのかみのやしろ)として記載されています。
明治6年、太政官(政府)は新たに神社の社格を定めましたが、この時に村社に列せられております。
村社というのは、1.官幣社、2.国幣社、3.別格官幣社、4.府県社、5.郷社、6.村社、7.無格社の社格の位置づけによるものです。
昭和20年8月、敗戦となり、これらの社格は一切廃止され、新たに全国の社寺が宗教法人となりました。
楯縫神社の歴史と由緒
楯縫神社の楯縫とはどんな意味や由緒をもつのでしょうか。
島根県に楯縫郡という地名がありましたが、明治中期に当時の郡制によって合併され簸川(ひかわ)郡となり、更に現在は平田市の一部となっております。この出雲の地・旧楯縫郡に勢力を擁した一族(以下楯縫部族とする)はその昔、東へ東へと勢力を伸ばし、丹波、但馬に進出、土地を開き農耕生産にいそしんで土地の一大豪族として権勢を振るい、朝廷に仕えたと考えられています。
出雲風土記には「楯縫という名の所以は、神魂命(かみむすびのみこと)がその子である天御鳥命(あめのみとりのみこと)=別の名は彦狭知命=を楯を造るを職とする部曲(かんべ=職業集団)の長として遣わし、大神の宮(出雲大社)に納める調度の品として楯を造らしめたことが今もずっと続いている。だから楯縫(縫う・・・・造るという意味)という。」とあります。
大化の改新(645)以後に宮中の祭祀(さいし)の重要な役割を果たしていた部族は、中臣(なかとみ)氏と忌部(いんべ)氏でした。中臣氏は主に寿詞(よごと=お祝いの言葉)を述べ、忌部氏は全国各地からの貢物(お供物)を取り仕切るという役割で、共に絶大な権勢を誇っていました。
しかし時代と共に、中臣氏の勢力が増し、忌部氏は衰え、忌部氏は宮中の祭典から排除されるようになって来ました。807年に忌部広成が平城天皇の下問に答え、朝廷の祭儀の由来、中臣・忌部両氏の来歴を述べ、忌部氏も宮中祭儀に与るべきことを主張しますが、時の勢いには抗し難く次第に衰えていくのです。
この後、869年に忌部高善が、忌部を改め斎部(いんべ)としたと言われています。
さきの忌部広成の書いたものを「古語拾遺(こごしゅうい)」といい、その書物の中に楯縫神社の名が見えます。
この忌部氏(斎部氏)がその遠祖(とおつおや)である太玉命を祀ったと伝えられており、忌部氏(斎部氏)に仕え宮中祭祀の時、特に天皇の即位式に供える神楯を奉納していた楯縫部族の人達はその先祖である彦狭知命を祀ったと伝えられています。
そこで、太玉命(ふとだまのみこと)を主として彦狭知命、忌(斎)部氏を主として楯縫部族という様に、この関係は繋がったものであることがわかります。
ちなみに、先の中臣氏(のちの藤原氏)はその遠祖である天児屋根命(あめのこやねのみこと)(春日神社)を祀ったと伝えられております。
■丹波・但馬の楯縫神社
「出雲風土記」に「楯縫」という文字を始めて見ることから、出雲を発祥の地と考えましたが、一体楯縫部族はどのようにして丹波・但馬にその勢力を築いていったのかを知るため、丹波但馬に存在する楯縫神社の歴史をたどることをしてみました。
郷土史家・桜井勉著「校補但馬考」と言う本があります。
それによると、「神社覈録(じんじゃかくろく)」という本の中に全国で楯縫神社と名付けられている神社は、常陸国(今の茨城県)、丹波国(兵庫県多紀郡)にそれぞれ一社、但馬国に二社あるとしるされていて、合計四社あることがわかります。
常陸国は神社覈録で確認するに止めました。
丹波国の楯縫神社は川内多々奴比(かふちたたぬひ)神社(多紀郡西紀町下坂所在)と社名がなっておりますが、文献等をみると間違いなく「楯縫神社」であり、祭神も彦狭知命であります。
又、この神社は「多紀の一の宮」として尊敬を集めており、宮司さんがおられます。
この地に住んだ楯縫部族の豪族はかって、日本が統一国家になった当時、天皇の即位式の後に行われる大嘗祭(だいじょうさい)に神楯を四枚奉納した由緒ある豪族であると「古語拾遺」に出ているのです。
※「多々奴比(たたぬひ)」も「多田谷(たたのや)」=当社が現在地に移転する前の所在地=も、後ででてくる「建屋(たきのや)」も「たてぬい」の訛ったものだと考えられます。
この「川内多々奴比神社」は鬼退治で知られる源頼光ともゆかりのある神社です。
さらに、氷上郡春日町長生にも「楯縫神社」がありますが、これは「川内多々奴比神社」を祀った多紀の楯縫部族が建立した「二の宮」ということです。
次に但馬の二社のうちの一社は養父郡建屋(たきのや)字長野に鎮座する「斎(いつき)神社」です。
この「斎神社」は毎年4月16日「養父神社」の御神体を載せた神輿を円山川に入ってはるかに遠い建屋まで運んでくる「お走りまつり」で有名です。(「お走りまつり」は養父神社のページを参照ください)
なぜこの建屋長野の「斎神社」を私達は「楯縫神社」というのか。祭神は天太玉命・手置帆負命・彦狭知命となっており、先にあげた古い文献にも「建屋」は「楯縫」の訛ったものだと言っております。又、この斎神社の境内社に「楯縫神社」があり、文献はこの「楯縫神社」が本当の斎神社の御神体だと書いてあります。ここで更に考証してみますと、養父郡建屋に今一社「楯縫神社」があるのです。
これは元来は「妙見社」であったものを明治6年に政府の行った社格の決定の際、政策的に力関係で「斎神社」の本来の社名「楯縫神社」としたもので、その当時この「楯縫神社」の社格がこの地方では相当高かったことがうかがえます。従ってこの「楯縫神社」は「但馬に二社あり」の中には入りません。
「斎神社」の由来によれば、「聖武天皇天平二年の創立」と伝えられているとありますので、人皇四十五代に当り西暦734年に即位していますので、今から1260年以上前ということになります。
この聖武天皇は奈良の東大寺や国分寺などを造り天平文化を築いた有名な天皇です。従って斎神社の由緒は相当なものだと知れます。
さて、但馬二社の次の一つはどこか、私達は今私達の村に鎮座する「楯縫神社」こそ間違いなく歴史に書かれた但馬二社の内の一社であると考えています。
まず、御祭神が彦狭知命であること、鎮座するところは多田谷(たたのや)であったこと。
「多田谷」は「楯縫」が訛ったものであるとの考証が歴史家によってなされている事。
古い文献には「但馬気多郡に楯縫神社あり」と書かれていますので、出雲を出た楯縫部族は一旦は丹波で勢力を伸ばし、更に但馬へと進出したのではないかと言うのです。
舞鶴自動車道の西紀インターはちょうど川内多々奴比神社の境内の一部を通過しています。
建設に先立った埋蔵文化財の発掘調査で、石ヤジリなどが多数出土するのですが、この石ヤジリが出雲産の石と同じだったことから、出雲族が丹波に移動してきた事が考証されたと言います。
出雲から丹波へそして但馬へと進出してきたことを考えると、私達の村の楯縫神社も、「斎神社」と同じ頃の年代に出来たのではないかと思われます。歴史書では「創立年代不詳」としていますが、凡その想像がつくと思います。(以下後日に続きを書きます)
コメント