兵庫県豊岡市小田井町15-6
小田井縣神社は「延喜式神名帳(905)」に記されている、所謂式内神社で祭神は国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)。
大昔、豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日(くるい)岳のふもとを穿ち瀬戸の水門を切り開いて水を日本海に流して水利を治め農業を開発した神様だそうです。
あれ?その伝説は出石神社の天日槍命(あめのひぼこ)じゃないの??・・・と疑問に感じたのですが。
国作大己貴命・・・は、出雲神話に出てくる大国主命のことで、「播磨国風土記」には渡来した新羅の王子「天日槍(あめのひぼこ)」と土地を奪い合った・・・というくだりがあるので同じ土地についてそれぞれからの話があるのでしょうね。
小田井神社の境内には本殿のほか4つの神社があり(柳宮神社・川下神社・稲荷神社・恵比寿神社)、中でも柳宮神社はもともとこの地にあった権現堂附近に極めて良質な杞柳がとれ、豊岡市地場産業の「柳行李」を生む元となったため柳宮神社として盛大な祭典を行うようになった
現在は柳行李から鞄産業へ主流が移り、豊岡市は国内きっての鞄の町となっています。
「川下神社」は「かわそっさん」と親しまれ、このあたり各地にありますが、「かわすそ」・・・・つまり、川が海に出る最後のところや、支流が本流に合流する地点にそれぞれあって、うちの近くにもあります。
7月30日が祭礼で御輿が出て、ところによっては御輿が川に入って行ったりします。
小田井神社境内の狛犬アラカルト
「御由緒」から抜粋~ 小田井神社の歴史
第十代崇神天皇の御代(前八六年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。
その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(一二七八年~一二八七年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。
元弘三年(一三三三年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
天正三年(一五七五年)十月、垣矢筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたといわれています。
天正年中(一五七三年~一五九一年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微しました。
貞享年中(一六八四年~一六八七年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(一七三六年~一七四〇年)神殿を改造しました。現今の春日作の社殿がそれであります。
明治六年(一八七三年)社格が定められ県社に列しました。
明治十一年(一八七八年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
昭和六年(一九三〇年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(一九六九年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和二十五年(一九五〇年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。
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