八月の行事

釜のふたついたち

八月一日は、地獄の釜のふたが開いて亡者が出てくる日である。という地域は多い。但馬でも、朝来、養父(やぶ)出石、城崎郡日高町一円など、その伝承がある。

この日に限って作られる食品があり、八鹿町伊佐、宿南(しゅくなみ)以北、出石郡では、スリヤキと言い又、養父郡大屋町では、コウラヤキとか、カマノフタとかと言います。一種独特の焼餅であり、その作り方は小麦粉を練って、平たい餅を作り中にアンを入れて、鍋か釜で両面から焼くのである。明治末から、茗荷の葉で包んで焼いたり、むしたりする方法が生れてきたらしい。

七夕祭り

七夕祭りは、次の三つの行事が集合したものであると言われています。
 
タナバタは、タナバタツメ(棚機女)の祭りで、タナ(カケ小屋)に立てたハタ(機)を織りながら、神のおいでを待つ乙女の祭り。この日、村人はミソギを行い、送り神(おかえりになる神)にケガレを持ち去っていただく祭りでもあります。

ハタオリ(織女)星と牛飼星とが会う日であると言う、伝説に基づく星祭でもあり、竹を立てるようになったのは、徳川時代も末期の頃からであろうともいわれる。

座敷の縁先に笹竹を二本立て、五色の短冊を飾る。二本の竹の間に切り紙細工の人形を、オガラに通して掛けるのは前に記した通りでその前に、なす、きゅうり、ささげ、ほうずきその他の初物や、あずき飯のおにぎりなどをお供えする行事であったが・・・・、現在では公会堂で子供会の行事として、形だけの事をしているのであります。

七日盆

八月七日は、古くからナノカベとか、ナヌカビといったらしい。関宮、八鹿町などで聞かれるこの言葉は、八月七日は牛の水浴をさせる土地が多く、また、この日に水浴びすると冬の病に強くなるとか、いずれにしても水浴びの縮まったものか定説はわからない。
ナノカビの行事は、この外に、墓掃除、仏具洗い、盆花取り、野道作り等なかなか忙しい日である。

仏さん迎え

八月十三日は、仏壇にお供え物をし、迎え団子を用意してお寺の本堂におまいりすることが仏さん迎えであるとした。出石町平田ではお寺さんが仏壇におまいりになる時、仏さんが帰ってこられるとしている。いずれも「仏さんがお寺から帰ってこられる」と考えるのであるが、墓からお帰りになるとする例は和田山町、養父町、香住町などで、十三日夕方墓に参り灯篭に火を入れることで仏さんを迎えるとしている。他にもいろいろな伝承があります。

私の家でも大体毎年7日に墓掃除、12日か13日の朝に盆花取り、13日午後にその花をお墓に供えて、13日夕方迎え火をたきにお墓に参ります。

昔のお墓は基本的に夫婦で一基なので、数がたくさんあり、花を供えると一言で言ってもなかなか大仕事です(20基くらいあります)。でも、供え終わって見ていると、本当に清清しい気持ちがします。

写真右端の花は「無縁さん」といって、どこの家の墓地にもあり、無縁仏さんを総称して必ず家の故人と一緒に供養しています。

毎年ピッタリお盆に合わせて咲く「おさいらい」は盆花には必ず供える花です
水の実を乗せるはすの葉

十四日の墓参り

十四日の早朝、水桶、線香、水の実、菓子などを持って墓に参り、自宅だけではなく、平素心安くしている家の墓、友人の墓などにもまいる。妻の実父母が健在であれば夫は十五日に、中元のあいさつに(盆礼)行くが、一人でも欠けていると十四日中に墓参りをすませる。それは但馬中どこでも同じしきたりのようである。

赤崎では現在も14日の早朝(6時頃から)どの家も家族総出でお墓参りをします。村の中に墓所が2箇所あり、山の中と平地の畑の中ですが・・・自分の家の墓ではない方の墓所にも必ず二箇所とも行きます。家ごとにたくさんの墓石が並んでいて、墓石の頭の部分が尖っているデザインのもの、又は戒名に「忠・殉・勇・・・・・」などの入った戦没者のお墓には村のどの家の人も必ず参ります。

この14日の朝の墓参りの時にもっていく「水の実」というお供えは、洗米・にんじん・きゅうり・なすの刻んだもので、お盆などに入れてすべてのお参りした墓と、お地蔵さんに供えます。お供えするときには、はすの葉の5~6センチ角に切ったものを敷いてその上に米・野菜をきれいに並べて供えます。

お盆の間は日に3回お仏壇になにかご馳走と団子を供えますが、特に15日の朝は仏さんたちが空を飛んで善光寺へお参りする日だとして、小豆ご飯の握り飯をお弁当として供えます。その日は家の者たちは「留守ごと」といって精進料理以外の肉や魚のご馳走を食べてもよく、また、15日夕食は善光寺から帰ってくる仏さんのために「待ちうけ」としてバラ寿司などを作ってお供えします。

盆礼(中元のあいさつ)

十五日は、朝早くお宮に参り、お寺や平素世話になっている家(親方、地主)や近所に中元のあいさつまわりをした。「よい春(盆春とも)になりまして・・・・」と心改まる印象的なあいさつであった。みやげ物は大きな負担にならぬよう盆礼には、ソーメン6~7束、家で取れた野菜少々、先方に子供があればそれに駄菓子を添えた。持っていく品物よりも、その心の通い合いを大事にしたという。ゆっくり昼寝をし、昼寝起きには、冷やしソーメンにキュウリもみか焼きなす程度のもてなしを受け、夜は盆踊りを楽しむ骨休め盆礼であったが、いつしか現在では盆礼などの往来は薄らいできた。

地蔵祭り

地蔵信仰は、平安時代の末頃から貴族の間に盛んになり各部落にある六大地蔵は、平清盛が「王城の地に悪疫のはいらないように」と各街道の京の入口に地蔵さんを立てたのが起こりである。とか、室町時代の終わり頃に「さい(賽)の川原の地蔵わさん和讃」が作られこれが普及して山村にも地蔵さんを立てるようになったといわれる。
地蔵さんはこの世と彼の世との境に居られ死後の苦しみを救ってくださると言い、お寺や墓に祀るほか、道路の危険な所、人家のない淋しい所、迷い易い分かれ道、峠や村境などにも祀られている。
但馬に祀られている地蔵さんは六地蔵のほかに「イボを取る」イボ取り地蔵、「口の病を治す」あごなし地蔵、「安産と子供を守る」子安地蔵、「死んだ子を守る」賽の河原の地蔵さん等各地にあります。
八鹿町宿南では主として、子供の行事であるが寺と部落の後援で、八月二十三日によだれかけを新しいのに取替え生花を立て、団子、果物などを供えて祭り、夜は老いも若きも踊りを楽しむ。この地蔵祭りは村の夏祭りに代わる日で、親類から来客もあり寺の境内に夜店も出て賑わう。

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